明治維新を単に悪魔の働きであったと見てよいのだろうか
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明治維新は、偽天皇のもとで進められた胡散臭い運動でしかないという見解は間違いだ。その一つの理由はすでに述べたように維新において南朝が復活したからである。
『裏切られた三人の天皇』(鹿島昇著・新国民社)には、坂本龍馬の門下生であり、のちに伊藤博文とともに明治天皇の腹心になった田中光顕伯爵の証言が掲載されています。
田中伯爵は「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、実は睦仁皇子はあやめられ、擁立された明治天皇は後醍醐天皇の第11番目の皇子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と述べています。
つまり、この満良親王は、毛利家の先祖である大江氏にかくまわれて長州に逃れたのです。その後毛利氏がその血脈を山口県の萩において守り続けたのです。
そのために王政復古の狼煙は長州から上がることになったのです。
桂小五郎(木戸孝允)こそ、吉田松陰のあとを継いで、勤皇の志士たちを率いた人物ですが、この桂小五郎が「われわれは南朝の御正系をお立てして王政復古をするのだ」と西郷隆盛に打ち明けたのです。西郷は西郷で南朝の忠臣だった菊池家の子孫でしたから、その裏があってこそ、薩長同盟は成り立ったのです。その中心には南朝の血脈を受け継いだ大室寅之祐がいたわけです。
私は、寅之祐の弟の孫である久子様にもお会いして、そのことを確認しましたし、その事実を隠すために実の弟さんがどのような目にあったかもお聞きしています。それはそれはすさまじいことになっていたのですが、今回は触れずにおきます。
孝明天皇がどのような状況でなくなったか、その実の睦仁親王がどのようにしてなくなったのか、それにもいろいろな証拠、証言があって、ほぼわかっていることですが、この対談では触れずにおきたく思います。この睦仁親王が別人であるという証拠、証言も今では数多くあります。
さらに、寅之祐の出身地である山口県田布施地区は、ユダヤ.秦氏とも関係の深い特殊な場所だったようです。そのごくわずかな地域に伊藤博文、桂小五郎らの生家が隣接しているのです。(前掲書)
<フルべツキの知られざる信仰の軌跡と驚嘆すべき業績>
小林「フルべッキは宣教師で、明治学院の創設者の一人です。
明治天皇の『フルベッキが東京に来てくれたこと、あれがよかった』というこのお言葉は時代を経るほどに、ますますズシンと重く受け止められてきます。と申しますのもフルべッキは生来寡黙で数々の偉業は、自身はもとより彼を巡る人々への緘口令の遵守から、決して外に漏れることなく、近年まで隠されていて表に現れて来ませんでした。
しかし近年、後輩の宣教師だったグリフィスによる『新訳考証日本のフルベッキ』(洋学堂書店)を翻訳された松浦玲氏と村瀬寿代氏による長年の執拗にして弛まぬフルべッキ研究によって、初めて日の目を見たのです。この結晶とも言うべき翻訳書の労作によって、母がかねがね私に伝えてくれていた明治天皇のお言葉が初めて具体性をもった傍証となって明らかにされたのです。
この書からは、フルベッキがこの日本に対し、如何に誠心誠意をもって取り組み、如何に深く気遣いながら、驚嘆すべき貢献の数々を成し遂げていったかを窺い知ることができました。フルべッキは周到にそして衷心から身を粉にして日本という国を導いてくれたのです。」
小林 「フルベッキは同じ宣教師として、イエズス会とその宣教師の伝道方法をキリストの敵として激しく憎んでいました。その苛烈さは当のグリフィスの筆も滞るほどの激しい形容の文章だった、と彼は記しています。
彼らの宣教活動は列強諸国の植民地化政策の先陣として遣わされることを常としていたからです。キリスト教の伝道は手段であっても、目的ではないという、彼らの背信行為。神への信仰と宣教を手段として用いることを戦略として、伝道活動する宣教師たち。飴と鞭を使い分ける狡猾な列強の植民地化政策。収奪'奴隸売買'麻薬による暴利と廃人化。
…
しかしフルべツキは違いました。
そんな外国人の中では皆無と言っていいほど、国策や利権には全く無縁、恬淡にして無欲、清廉にして潔白、率直にして実直な人柄。博覧強記の上に謙虚で寡黙な『神の人』がもたらす情報は、体制を超えて憂国の志士たちの心を魅了していったのです。
日本を植民地化しようと牙をむいている列強国からの情報などでは、偽らざる植民地化の歴史と現在の動静などとても信頼に足るものではありません。
また、八方を海で囲まれた島国で、しかも長年、鎖国状態に置かれていた日本人が、どうして列強による収奪の歴史の経緯など知り得ましようか。
船舶・武器・弾薬等の調達による暴利や収奪を目論む外国人たちからは、正確な情報など期待することは不可能だったのです。彼らは利権に目が眩んでいたからです。あるいは国策遂行義務のしがらみから、日本人に本音を伝えることができなかったのです。
動乱期の日本との折衝に当たっていた諸外国の高官たちの日誌から、彼らの葛籐を窺い知ることができます。国策と私人のはざまで生じる苦渋に満ちた葛藤があつたのでしょう。
そのような中に「長崎に本当の国際情勢と独立日本の針路を惜しみなく披瀝してくれる宣教師がいる」。この知らせは、幕府側の高官.勝海舟をはじめ公卿衆、開国派の諸藩の藩主.高官や坂本龍馬らを代表とする脱藩者たち約六百名にものぼるあらゆる階層の憂国の志士たち、将来の日本の指導者となる若者たちの目を開かせました。これがフルベッキを慕い、体制を超えて全国から多くの有志が彼の元に参集した理由です」
<「日本人は約束の民である!」フルベッキは看破していた>
小林 「観察眼にも鋭いフルベッキは、長崎に上陸し日本人に接しているうちに彼らが卓越した道徳心と忠誠心、優れたものに対する貪欲なまでの学習心、そして学問に対する熱心さ、何事にも好奇心旺盛なる資質を持つという、世界のなかで『特殊な民族』であることを本国への報告として書き送っています。
かつて元禄時代、日本を訪れたドィツ人医師ケンペルはその著作の中で日本人を称して、『バビロン捕囚されていたへブライ人の末裔』の民族であることを記していますが、やがてフルベッキは、その記述を彼自身の目で確認するのです。
フルベッキは日本人を『聖書に記された特別な民族』『約束された民族』と位置づけていたのです。
フルベッキのアメリカの伝道本部への書簡には、何事にも控えめで寡黙な彼が『「特別な民」「約束された民」のためにとにかく、なるべく早く、アメリカで最高の宣教師たちを!』と派遣を要請する手紙を逸る心で何度も送り、本国に打診しています。
私たち日本人にはこの文面は一寸面映ゆいのですが、とにかく用心深く謙虚なフルべッキがアメリカ本国に宣教師の要請を、燃える思いで吐露し依頼しています。日本の国政に忙殺されるさ中、夜を徹して手紙を認めている箇所をここに引用してみましよう。明治3年2月21日付けの手紙です。
『崇高な事業、天賦の才を受け入れる場所があるとするならば、それはここ日本であり、まさに今なのです。影響力を広く永久に持ちたいと望む、崇高な野望を有する人がそちらにいましたら、ここ日本が彼らの働く場所です。
神聖な大志を達成するための偉大な約束の地を、彼らはここで見つけるでしよう。これは誇張ではありません。単純な事実です。
もしこのことが有望な青年たちに理解されたなら、その中には必ずや神に選ばれた者があり、その人は他のあらゆる計画や将来の見込みを投げ出し、この特別な国で、無条件に神の目的に身を捧げると思います』
フルベッキがこのような内容の手紙を書きながら、日本が『偉大な約束の地』『特別な国』と認めている彼自身の心の中に、大きく占めていたのは『明治天皇』という存在であり、『日本人』であつたことは明白です。」
2013年4月25日
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