ノンクリスチャンの誤解の一つに、神は超越者であるが、内在者ではないというものがある。
神は超越して遠くにいて、われわれに関心を持たない、というのは理神論の神である。
聖書の神は、われわれの中におられる。
クリスチャンの体は聖霊の宮である。
クリスチャンの集まりには聖霊がおられる。
そして、聖霊にあって、イエスがおられる。
イエスは天におられるのだが、聖霊とイエスは契約的に一人なので、聖霊にあってイエスはおられる。
父なる神もおられる。
われわれが御国を作ることができるのは、超越と内在の神としてのイエスがおられるからである。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・18-20)
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」つまり、超越である。
「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」つまり、内在である。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」つまり、神の国を作れということである。
神の国は、イエスの超越性と内在性を基礎として広まる。
神は超越者であるから、誰にも裁かれない。
神は、人間の批判をも受けられない。
人間は、罪を犯さずに神を評価できない。
神を評価し、判断した段階で罪を犯したことになる。
神は創造者であり、われわれの主権者なので、評価の対象となることは絶対にない。
神がわれわれを評価するのである。
神やその御言葉を疑うことは、神や御言葉を裁くことになり、われわれが超越者になることを意味する。
これは、神に対する挑戦であり、われわれは神のライバルになる。
「数学的に神は存在できない」という人がいるが、数学を使って裁くことができるのは、被造物だけである。
人間を超えた存在である神は誰にも裁かれず評価されない。
神は、内在者である。
神は空間的にも絶対なので、どこにでも神はおられる。
100億光年離れた星の中にも神はおられる。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。(詩編139・8)
誰も神から逃れることのできる者はいない。
全部知られている。
犯罪者は、神が内在者であることを無視している。
行ったことは、必ず報いがくる。
報いがないことなど一つもない。
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ10・42)
信仰の経験が積み重なると、「加減」がわかってくる。
「ここまでやると、裁きが来るな」とか「こういう傲慢さには結果が出るな」とか、自分だけではなく、人を見ていてもわかるようになる。
TVで、違和感を覚えるような傲慢な人間がいると、必ずあとで変なことが起きる。
押尾学は、違和感を強く感じた人の一人だった。
いずれ何かが起きるなと思った。
クリスチャンは経験を積むことによって、神の取扱いについて勘が働くようになる。
だから、むちゃくちゃなことをしない。
たとえば、ほめられることがどれほど恐ろしいか知っている。
ほめられると、未熟な人は必ず傲慢になる。
私もそうだった。
しかし、あるときに、傲慢になると必ず貶められるとわかってから、ほめられたときに「私ではなく神様です」と栄光を神に帰するようになった。
栄光を自分に与えることは恐ろしいことだ。
ほめられたら「主の恵みです」という習慣をつけるべきだ。
場合によっては、死ぬこともある。
定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。(使徒12・21−23)
王様が、毒虫にかまれて死ぬ。
明らかに神が「栄光を奪った」ということだ。
理由は、栄光を自分のものにしたから。
「主に栄光を、私には恥を」というべきである。
そうすれば、王は長生きしただろう。
日本が弱くなったときに、ある反日企業の社長が「日本はあと3年でなくなる」といった。
そのほかにも数々の侮辱的な言葉を日本と日本人に浴びせた。
今は国会でもブラック企業扱いされている。
われわれは、常に内在する神を意識しなければならない。
神はわれわれの隣にいて、いつも傲慢な人間を裁く準備をしておられる。
また、逆にへりくだった人を祝福しようとされている。
自分がほめられるとき、調子がいいとき、そういうときこそ、一番の危機なのだ。
るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。(箴言27・21)