聖書法綱要 8.権力と権威 (3)
しかし、聖徒たちは、神の法によって世界を統治すべきであり、そのためにはその法を知らなければならない。つまり、健全な教会生活を送るには、基本条件として、神の法とその意味、適用を絶えず学び続ける必要がある。
どのような聖書的見地から見ても、権威の問題を法と分離することはできない。権威の主要な意味は「服従を命令し、強制する権利、公的に活動する権利」である。英語で権威を表すauthorityの起源は、「増加」という意味のラテン語augeoである。権威は、自然に増大する。真の権威は繁栄し、増大する。権力と権威は別の意味を持つ言葉である。権力は、力または威力である。権力は、権威なしに存在できるし、権威なしに存在することが多い。オデュッセウスとテレマコスの権力、そしてローマ帝国の権力は、真の権力であるが、神の法という点では、彼らに権威はなかった。たとえ、社会において単に合法的な統治者としての形式的な権威を有していたとしても。デニス・デ・ルージュモンが指摘したように「子供を盗んでも、父になるわけではない。子供を盗むことはできても、親の身分を盗むことはできない。権力を盗むことはできても、権威を盗むことはできない」。5
教会は、神の法に忠実であることによって、その権威を確立し、強化し、増大させなければならない。パウロがコリント人に指摘したように、クリスチャンが神の法に従い、教会がそれを内部の問題に適用し、教会員と市民に対してそれを自らの周囲の世界に適用するように求めるならば、その権力は増大するものである。
この増大した権力の基礎は、イエス・キリストである。キリストは「天においても、地においても、すべての権力が私に与えられた」と宣言された。すべての権力の絶対的な所有者として、キリストはすべての直接的な権力をあらかじめ決定する源であり、権力と権威の完全な一致でもある。
歴史という学校において、教会が後退し、非難され、卑しめられたのは、常にその権力がキリストの御言葉の権威に根差すことを止め、その権威がキリスト以外の主からの支援を受けようとした時であった。教会は、すべての人と国民に「私があなたがたに命令したことをすべて守るように教えなければならない。見よ、私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。キリストの臨在と権力は、命令するすべてを守るように教える者たちを支援する。
神の権威から離れた権力は、徐々に悪魔的になる。継承や選挙のような人間的な方法で合法化された権威が道徳を失い、神の秩序に敵対することがある。ある意味においてネロの権威は合法的であり、クリスチャンは彼に従うことを求められたが、その権威は背神的であり、時が経つとともに明に暗にサタン化していった。真の秩序が成立するには、権力と権威の両方がその性質と適用において神的である必要がある。
この問題のある側面は、突然自分の白日夢がおそらくサタン的であることに気づいた一人の有能で思慮深いクリスチャンの話によってもっともうまく説明できる。このクリスチャンの夢とは、すべての裏切り者と共産主義者たちを処刑し、抹殺できるだけの権力を身に着け、すべてのアメリカ人を奇跡的に回心させる力を手に入れた、というものであった。思考の中ではキリストに同意し、想像の中ではキリストにサタンの誘惑に屈することを求めた。すなわち、奇跡の力で信仰を強制し(マタイ4・5-7)、数々の問題から奇跡的に守られることを願った (マタイ4・1-4)。
そして、非常に洞察力のある質問をした。すなわち「その代替物は単に、法と強制と奇跡をまったく伴わない回心と愛の方法なのか。それとも、奇跡と法と強制が何らかの形で場所を得ているのか」と。
この質問に答えるために、まずマタイ13章58節を見よう。イエスは「故郷」であるナザレにおいて「多くの力あるわざを行われなかった。それは彼らの不信仰のゆえであった」(マタイ13・54)。「イエスの奇跡を行う力は、人または群衆の側の信仰に依存している」と考えるべきではない。それは大きな誤謬である。イエスの御力は完全にご自身―つまり彼の神性―に由来するものであり、人々の対応にはまったく依存していなかった。そのためナザレで行われた奇跡の数が少なかったのは、別の理由からであったと見るべきである。中には、公然とではなかったが行われた奇跡もあったようである。というのも「多くの力あるわざを行われなかった」と、奇跡が行われたことを匂わせる書き方がなされているからである。人々を回心させるために行われた奇跡は、一つもなかった。律法学者とパリサイ人による「しるし」の求めは、「信じざるを得ない状態にすること」すなわち「見ることによって信仰を不要にすること」を目的としていた。イエスはこの要求を拒否された(マタイ12・38、45、16・1-5)。
奇跡の目的は、神の栄光を表すためであり、奇跡に対する信仰の応答も神の栄光を表すためであった(マルコ2・12)。このように、神からの奇跡的かつ摂理的な助けを求める回心者の人生には非常に重要な場所がある。それは、神の統治者としての配慮の一側面である。
2015年4月12日
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