(1)
教会成長学では、「世の人々の歓心を買え。そうすれば、教会は成長する」という。
しかし、聖書では、「イエス・キリストにつながっていなさい。そうすれば、教会は成長する」という。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15・4-5)
人の歓心を買えるかどうかはどうでもいいことである。
イエス・キリストへの信仰を深くし、御言葉を守れば守るほどイエス・キリストというぶどうの木からの養分が枝である自分に注がれ実を結ぶ。
集団主義の学校教育や、教会成長学などでは、それよりも「世とのつながり」を重視する。
「世から嫌われないようにしなさい」と。
「人気者になりなさい」と。
このような「的外れ」な生き方を勧められる子供たちや教会は精神を病む。
(2)
人気者になろうとすると、逆の現象が起きる。
「好かれようとする人は嫌われる」。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9・24)
「教会に人を集めたいと思う教会は、それを失」う。
なぜか。
動機が不純だから。
イエス・キリストのために教会を建てたはずでは?
それが、人を集めて、「成功した教会」になりたい、牧師の間で面目を保ちたい、キリスト教界で大物と呼ばれたい、など、不純な動機にすり替わってしまった。
成功そのものは悪ではない。
「何が成功か」が間違っている。
「自分のいのちを救う」ことが成功であるならば、成功への努力は逆の結果を生み続ける。
われわれは「神が幸せになる」ために召された。
「神が幸せになる」ことこそが成功である。
だから、それを第一に求めるべきである。
そうすれば、逆に「自分も幸せになる」。
(3)
ウエストミンスター小教理問答より
第31問 有効召命
問: 有効召命とは、何ですか。
答: 有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。
http://www.jesus-web.org/westminster/west_031.htm
永遠の昔に神によって選ばれた人は、有効召命により、確実に救われる。
確実に救われた人は、「聖徒の永遠堅持」により絶対に滅びない。
聖徒の永遠堅持(せいとのえいえんけんじ、Perseverance of the saints)、とは神に選ばれ、召された選民の救いが永遠に失われずに、一時的に信仰が後退し、弱められても、回復の恵みを与えられるという教理(Wikipedia―聖徒の永遠堅持)
信仰を失ったまま死ぬ人々は、もともと救われていなかった。
神の側では、選ばれた人々と選ばれていない人々の差は絶対であり、それは永遠の昔に決定されている。
だから、一方から他方へ、他方から一方への移動はない。
内村鑑三の弟子であった有島武郎が情婦と軽井沢で自殺したのは、有島がもともと選ばれていなかったからである。
(4)
神の側では、永遠の昔に次のようなストーリーが決定されていた。
Aを、Bの時代にCという地で生まれさせ、Dの時にEの場所でFから福音を聞いて信じさせよう。そして、Gという仕事を与えて、それによって神の国建設に参加させ、Hという業績を残させるようにしよう。Aに永遠の命を与え、その業績に応じて永遠の報酬を与えよう。
逆に、神の国の敵として生まれるように選ばれた人々には次のようなストーリーが決定されていた。
A’を、B’の時代にC’という地で生まれさせ、D’の時にE’の場所でF’から福音を聞くが盲目のままに放置しよう。そして、G’という仕事につくことを黙認し、それによって神の国建設を妨害させ、H’という負の業績を残させるようにしよう。A’に永遠の命を与え、その業績(罪)に応じて永遠の負の報酬(刑罰)を与えよう。
だから、最初から、神の側の人々と、神の敵の側の人々の陣営は決定されていた。
各陣営の構成員も決定されていた。
神の側の陣営には、「地を従えよ」との使命が与えられ、その命令は必ず成就する。
それは、人気商売のような揺れ動くものではなく、神の計画によって決定されたもので、陣営がイエス・キリストに固くつながっている限り、成長し続ける。
だから、教理教育によって基礎を作ることが重要なのである。
われわれの側で努力すべきは、「世俗の歓心をいかに買うか」よりも「いかに聖書的であるか」である。
そうするときに、われわれのもとには「選ばれた人々」がやってきて、勢力は拡大する。