教えを犠牲にした成長は成長ではない


1.

最近、ある人と知り合いになった。

私にとって大きな転機となり、活動の方向転換をするきっかけとなった人のお父様であった。

HPを見て、連絡してこられた。

私が札幌南高校出身と知ったその人が、〇〇先生を知っていますか、と聞くので、下の名前を聞いたところ、私の2〜3年の担任と一致した。

「〇〇先生とどういうご関係ですか」と聞くと「義理の兄弟」だと。

20年も前の話が持ち上がったことですら驚きなのに、担任の親類だとは仰天した。

人はどこでどうつながるかわからないものだ。

2.

いたって普通の人間なので、人に恨まれたり、悪意を持たれたことはあまりない。

ネットで活動しているので嘘の噂を流されたりすることはある。

たとえば、会ったこともない人からストーカーされたとか。

単にミレニアム通信のメーリングリストからメルアドを外すのを忘れて送り続けたのが、しつこくつきまとわれたと誤解されたようだ。

しかし「メールが送られ続ける」と苦情がきてすぐに外したので、ストーカーには当たらないだろう。

ちなみに、私のポリシーは「知りたくないことを押し付けても意味がない」である。

人の考えは押し付けて変わるものではない。

とくに霊的な内容のことは、神が目を開かせてくださらない限り、絶対に理解できない。

人間の側の努力は、「聞く耳のある人を探し出すこと」だけであって、「相手の心を開く」のは神だけができる。

これは永遠の昔に定められた神の決定であり、人間がどうのこうのできる事柄ではない。

神が選ばれた人は、耳を傾けるし、選ばれていない人は1億回同じことを伝えても絶対に理解しない。

だから、その人に独自の価値観があるならば、尊重し、すぐに離れる。

「聖書にはそう書いてあるかもしれないけど…」と言ったら、もうそれ以上は説得しても無駄である。

「話せばわかる」というのは幻想である。

聖書が示すとおり限度は2、3回である。

異端の教えを信じている場合は、説得は1、2回である。

あとは、それぞれの道を進めばいいのである。

選ばれている人は、戻って来るだろうし、選ばれていない人は、戻って来ない。

3.

多くの教派から生徒を集めるために、教えの基準を下げて、神学校を開いても意味がない。

「それでは経営が…」

金儲けしたいのなら、別の仕事がある。

会社経営と神学校経営はまったく質が違う。

教えというのは、命をかけるほどの最重要事項であって、妥協したら意味がない。

神が「一点一画たりとも廃れない」と言われた御言葉について、われわれが「一点一画」を取り除いていいのだろうか。

4.

教会成長学のモットーは「教会が成長するのは神の御心である」だ。

たしかに。

しかし、教えを犠牲にした成長は、成長ではない。

「礼拝出席者数」や「献金額」などが基準になるようなこの学問は、実質的に神の国を破壊している。

ノーマン・ヴィンセント・ピールやピーター・F・ドラッカーなどのフリーメイソン関係者が深くかかわっている以上、こういう学問を取り入れる牧師は、警戒心がなさすぎると言わざるを得ない。

5.

もちろん、マイナーな問題で主張が異なる場合、調整を取ることも可能だろう。

しかし「行為義認か信仰義認か」は、キリスト教の根幹にかかわる重大な問題である。

こういう問題で立場をあいまいにするような人とは付き合うことはできないし、付き合ってもならないと思う。

 

 

2017年4月22日



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