人間は霊の家である


よく集会に出て、ぼんやりしている人とか、どんよりしている人を見かける。

明るさがない。何かふさぎこんでいる。

話を聞くと、秘密がある。隠れて占いをしているとか。

クリスチャンであっても、すきを作れば、入られるのだ。

一般に精神疾患にまとめ上げられているが、実際のところは霊の憑依である。

自分はギリギリのところまで行ったことがあるからわかる。

信仰に欠陥があると、そこからサタンが火矢を入れてくる。

防ぐことができるのは、信仰の大盾だけだ。


これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。(エペソ6・16)

私はこれまで無数のカウンセリングを通じてパターンがあるとわかった。

その一つは、「カウンセラーに対する不信」である。

こちらに対して不信感を持たせるようにサタンは働きかける。

そうすれば、こちらが何を言っても入らない。

カウンセラーとしてだれを選ぶかは重要だ。

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(詩編1・1)

不幸への第一歩は、「悪者のはかりごとに歩む」ことである。

キング・ジェームズ訳では、「不信心な人々のカウンセリングにしたがって歩む」と訳されている。

つまり、ノンクリスチャンのカウンセリングにしたがって歩くこと。

サタンはクリスチャンがノンクリスチャンの意見に耳を傾けることを希望している。

そして、そのためにはクリスチャンのカウンセラーに不信感を持たせる。

マイナーな問題を拡大して伝え、信頼を失わせ、その結果、信仰的なアドバイスを聞かせないようにする。

そして、不信仰な人々の意見を聞かせる。

そうすれば、もはやその人を手に入れたのも同然。

あとはじっくり調理され、廃人にさせられる。

こんな人何人も見てきた。自殺した人もいる。

いったん、信仰の道に入って、信仰から離れたら、残るのは「よく整頓されたきれいな部屋」である。

悪霊はさらに悪い悪霊を7匹つれてやってくる。

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。(マタイ12・43-45)

人間は霊の家である。

だから、聖霊が住むか悪霊が住むかのいずれか。

キリスト教が悪霊を言わなくなっているのは、悪霊の仕業だ。

問題を病ととらえるように誘惑されている。

聖書信仰から離れて、ノンクリスチャンの意見を聞くようになったら、もはや破滅への坂道を下るしかない。

 

 

2011年5月19日

 

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