信仰において自立するために自分を鍛えよう


クリスチャンは徹底しないと意味がない。

中途半端だと隙を狙われてサタンに攻撃される。

「山を動かすことができる」とイエスは言われたが、「疑わないで祈るならば」と条件がある。

疑いながら、何かを期待することは不可能である。

自分自身で信仰において回答をつかまないと弱い。

回答をどうやってつかむのか。

人の信仰に依存したらだめ。

自分の中で「ああでもない。こうでもない」と考えることだ。

たとえば、千年王国は未来にあるという立場の人は、本気になって研究してほしい。

教会の牧師が言っているからとかではなく。

「本当に聖書はそんなこと言っているのか?」と疑うべきだ。

聖書以外はすべて疑いの対象なのだから。

聖書以外は最高権威は存在しないのだから。

そうすれば、千年王国が未来に来るなどという教えに聖書的根拠などないと分かるだろう。

そして、そういう考えが実はイルミナティから出ていることも気づくだろう。

私は、インスピレーションを大切にする。

しかし、インスピレーションは絶対ではない。

インスピレーションが聖書と矛盾するならば、それを捨てる。

聖書と矛盾しなければそれを他の様々な教理と結び付け総合的に教えを深める。

こういう霊的、知的な格闘の中から生まれたものしか私は信用しない。

「どこの教会でもこれは信じているから」とか、人間を神としているクリスチャンが多い。

聖書を最高権威としつつ、聖霊の導きを求め、聖霊によってインスピレーションを与えられるならば、人間が何を言おうと関係ない。

人間に救いを求めると、罠にはまる。

信仰がぐらつくのは、人間に信頼しているからだ。

クリスチャンは、孤独に耐えられなければならない。

パウロが荒野で3年間過ごしたように、人間に頼らないで神にだけ求めるしかない。

その孤独の中で訓練されたからこそ、パウロは神とのパイプが太くなり、他の使徒を必要しなかった。

一使徒として、独立して活動した。

もちろん、教会に所属はしていたが。

今、世界の教会はほとんど全滅している。

だから、インターネットで学ぶしかないと思う。

改革主義の教会ですら、牧師がバルトや進化論を信じている。

長老派では、プレ・ミレを信じるグループもある。

一体どこに正統派を見つけることができるのだろうか。

信仰において自立するために自分を鍛えよう。

 

 

2012年11月18日



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