聖書に立たない運動はいずれサタンの餌食になるだろう


新使徒的改革は、使徒の職務はまだ存在すると唱える。

しかし、使徒の職務は、紀元一世紀に終わった。なぜならば、使徒になる人の資格は、「イエスの弟子たちと行動を共にし、復活を目撃した人」でなければならなかったから。この基準で判断してマッテヤが選ばれ、ユダの死後空席だった使徒の座に座った。

使徒職がまだあるとすると、「使徒による証言」である新約聖書と違うものが「新しい使徒の証言」として出てくる恐れがある。

この運動に属する人々は、「そんなことはない」というのだが、非常に怪しい。

聖書啓示が完結している今に、どうして新しく使徒が必要なのだろうか。

われわれは、聖書があるから使徒は不要だ。

使徒は、教会を誕生させる使命を持った族長である。

ヤコブの子12人がユダヤ民族の祖になったのと同じだ。

使徒とは、「そこから契約の民が起きる出発点」だ。

教会はすでに紀元一世紀において12使徒とパウロのもとで打ち立てられたのである。

どうして始祖が今頃になって出る必要があるのか。

われわれが求めるべき賜物とは、それ以外である。

なぜカリスマ派は、ここまで使徒職にこだわるのだろうか。

私には、「御言葉以外の権威を設定したい」という野心があるからではないかと思う。

この「御言葉から遠ざかりたがる」心理は、サタンのそれである。

サタンは、エバに対して「御言葉よりもあなたの知恵のほうが大切だ」と誘惑した。

カルヴァン派は、御言葉を求める。

人間が何を言おうが御言葉が最重要である。

だから、聖書が「人は生まれる前から予定されている」と述べていれば、そのまま「はい、そのとおり。人は生まれる前から予定されている」と告白する。

しかし、予定説など信じたくない人々が、自分勝手な考えを言い張るためにアルミニウス神学を作り出した。

結局、聖書の言っていることを素直に受け入れることができないから、いろんな派閥ができるのだ。

再建主義が、聖書信仰の進化型であるセオノミーを唱え、なおかつポスト・ミレを唱え、現段階でほぼ完ぺきな神学を作り出しているにもかかわらず、それを素直に受け入れず、ポスト・ミレだけを受け入れ、セオノミーを拒絶したがっているから、使徒職を復活させたがるのではないか。

私は、ピーター・ワグナーの外見に、ラッシュドゥーニーのような誠実さを感じることができない。

どうしても野心を感じてしまう。

素直に、再建主義を受け入れて、セオノミーとポスト・ミレを唱えればいいのだ。

聖書に立たない運動はいずれサタンの餌食になるだろう。

 

 

2012年5月23日

 

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