キリストは神であり人間である


われわれは、日本人選手がメダルを取ると、喜ぶ。なぜならば、われわれも、日本人としてその選手と一体だからだ。

これを契約的一体という。

物理的(存在論的)には別個の存在ではあるが、民族として同じグループに属しているので、感情移入ができる。

日本人ならだいたい同じものを食べて、同じものを見て、同じ言葉を話す。だから、一体感が強い。

アダムもオリンピック選手のようであった。

エデンの園において、まだ人類は生まれていなかったが、契約的には存在した。

われわれはアダムの「腰の中に」(ヘブル7・10)いた。

アダムは、人類の代表として、神の試験を受けた。

そして失敗した。

それ以来、人類はことごとく失敗者として生まれてくる。

生まれながらに契約違反者である。


私たちもみな、…生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2・3)

われわれがどう考えようと、聖書は、はっきりと「人類は、一つの契約的存在として神に見られている」と証言している。

われわれは生まれてくるときに、アダム族の一員として生まれる。

そして、アダム族全体が契約違反しているので、生まれたときから契約違反者である。

アダムにあってすべての人が死んでいる(第1コリント15・22)

キリストは、この立場から救い出すために神によって送られた「第2のアダム」である。

アダムが失敗した試験に合格して、われわれを合格者に変えるために送られた人である。

キリストによってすべての人が生かされる(同上)

だから、イエスは神であられるのに、人間の姿を取らなければならなかった。

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ2・6-9)

日本人選手として登録されない限り、いくら優れた成績を残してもオリンピック日本代表団の成績にならないように、キリストも人間にならない限り、その功徳をわれわれに付与することはできない。

キリストは人間になって、人間として神の命令をすべて守り、人間として刑罰を身代わりに受けて、律法の要求を満たさなければならなかった。

グノーシスが言うように、もしキリストが霊でしかなかったとしたら、キリストはわれわれと関係がないので、われわれの罪責は消えない。また永遠の命に値するような功徳も積んでいない。

また、逆に、アリウス派やものみの塔が言うように、キリストが神ではなく、単なる人間でしかなかったとしたら、いくら罪を犯さず、律法を完全に守り、人間のために十字架にかかったとしても、その業は、一人の人にしか適用されない。なぜならば、人間の命一つは人間の命一つしか償えないから。

だから、キリストは人間であると同時に神でなければならない。

このいずれかを否定する教えは、聖書の教えに反し、人間に救いを与えることができないので、異端である。

キリストは神であり人間である。

 

 

2012年8月3日





 

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