どのように祈るべきか2


(4)


だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

祈りが人間中心になると、それは聞かれない。

あくまでも神中心でなければならない。

だから、最初に祈るのは、自分のことではなく、神ご自身のことである。

1)神の御名に栄光があるように。
2)御国が到来するように。
3)みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

1)において、われわれは、神の御名が栄光を受け、称賛され、高められることを求める。

われわれの人生の第一の目的は、われわれの幸せではなく、神の幸せである。

神の創造の目的は、御名の栄光であった。

つまり、神がいかに素晴らしいお方かを被造物に知らせることであった。

われわれはオリンピックにおいて優れた成績を収めた人を表彰し、栄光を与える。

神の創造の第一の意義とは、神が表彰され、栄光をお受けになることであり、われわれの人生の第一の目的は、その栄光を神に与えることにある。

われわれがたとえそれによって命を落とすようなことがあっても、神の栄光を優先させるべきである。

2)では、キリストの王国の拡大を祈る。

キリストは、紀元70年に昇天され、世界の王となられた。

それゆえ、法的にはキリストは世界の王である。

しかし、実際的にはキリストはまだ世界の王ではない。

イスラム教国ではキリストは預言者の一人にすぎない。

共産主義国ではキリストは王から引きずり下ろす対象である。

イルミナティが教育を支配してから、学校から祈りや十戒が消え、世俗化が進んだ。

今や、日米どちらにおいても、キリストを王にする教育は行われていない。

なぜならば、クリスチャンが妥協したからだ。

教育をノンクリスチャンに明け渡したからだ。

われわれはキリストを王とする教育を拡大しなければならない。

そして、世界のあらゆる領域を、キリストを主として礼拝するための領域にしなければならない。

3)において、われわれは、神のご意志が、天で完全に実行されているように、地上でも完全に実行されることを祈り求める。

ディスペンセーショナリズムのクリスチャンたちは「地上は悪魔の領域だから変えようとしても無駄だ」という。

しかし、聖書ははっきりと「地上を天国のようにせよ」と言う。

われわれの第3の願いは、世界のエデンの園化である。

(5)

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

われわれは、ここにおいて、日用の糧、つまり、お金、職業、健康など様々な問題について祈る。

これらは、神の栄光と御国と御心の実現の下位に属する課題であるから、われわれにとって日常生活における必要とは、神の栄光と御国の文脈の中に置かれるべきであるということがわかる。

日常生活は、これらと独立して存在してはならない。

われわれの生活のすべてが神の栄光と御国の拡大のためにあると認識しない限り、真の意味において、必要なものは与えられない。

(6)

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

罪の赦しを祈る。

われわれの罪の赦しは、われわれがどれだけ他人の罪を赦したかに依存している。

他人の罪を厳しく責めるならば、神もわれわれの罪を厳しく責められる。

裁かれないために、われわれは寛容になるべきだ。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ6・37)

断罪癖のある人は、無用の裁きを自らの身に招いている。

もし自分に対して赦しを求めてきた人がいるならば、赦すべきだ。

赦さないなら、自分も同じ基準を適用されて神から裁かれるだろう。

このことは、ベテランのクリスチャンならば、何度も体験で知っていることだろう。

神を恐れる人は、いつも人の悪を忘れようとする。

(7)

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』

最後に、誘惑に陥らないように祈る。

われわれは、この祈りなしでは、簡単に罠にはまる。

ペテロはイエスの前で「殉教でもなんでも受ける用意があります」と大見得を切った。

しかし、イエスは彼の心の中を知っていた。

すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。(マタイ26・33-35)

実際、イエスが裁判にかけられている最中に、この予言は実現した。

そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、「言い当ててみろ。」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。
ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。{すると、鶏が鳴いた。}
すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。
しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。
するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(マルコ14・65-72)

「自分は誘惑にあっても負けません」と神に告白することは、自殺行為である。

神ご自身は、その傲慢に対して、誘惑に負ける自分の弱い姿を自覚させることによって報いられる。

われわれは、常に「私が誘惑にあっても勝てるのは神が支えていてくださるからにほかならない」と告白すべきだ。

「自分の力に頼れば、たちまちにサタンの餌食になる弱い者です」と。

すべての無神論者は、偽善者である。

なぜならば、彼らは神の支えを拒否するから。

彼らは神の支えを拒否するので、神は、彼らを誘惑の中に叩き込まれる。

何千年もの間、無数の人々を堕落させてきたサタンの手綱を緩められる。

サタンは出かけていって、その大見得を切った無神論者に罠を仕掛けて罪を犯させる。

「神の恵みにより誘惑に陥らないで済んでいることを感謝します」と告白する敬虔なクリスチャンには、固いガードが組まれているので、近づけないが、神の支えを捨てた傲慢な無神論者にはガードがないので、簡単に近づいて、コロっと騙すことができる。

誘惑に陥らないためには、「私を今日も悪魔の誘惑から守ってください」と祈るしかないのだ。

「僕は大丈夫だ」なんて考えている人は、早晩ひどい落とし穴に落ちるだろう。

(6)

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

最後は頌栄で終わる。

国と力と栄え。つまり、イルミナティとか中国共産党政権など、この世の人々が切に求めているものは、神にのみ属すると唱えよ。

どんなに人間の勢力が強くても、どんなに彼らが努力しても、国と力と栄えは得られない。

無駄な努力だ。

覇権は、神にのみ属し、すべて神のライバルは破滅する。

これが世界の歴史において繰り返されてきたことであり、また、これからも繰り返されることである。

われわれは、神とキリストだけがこの世界の覇者であると告白して祈りを閉じるべきだ。

 

 

2012年9月22日



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