(1)
失敗を挽回するための最高の方法は、神を愛することである。
神が失敗を働かせて利益に変えてくださるからである。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)
「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」。
神を愛している限りにおいて、失敗はない。
罪を犯しても、それで終わりではなく、それが全部利益に変わる。
オセロのようなものだ。
次から次へと白が黒に変わって一列真っ黒になっても。
神が両脇を白に変えてくださる。
真ん中の黒は白に変わる。
神を愛する限り、失敗はすべて成功になる。
勝ち組みになりたいならば、神を愛することだ。
神を愛するとは、神の御心のために働くこと。
誰かを愛するといいながら、その心と逆をやったり、無視すればそれは愛したことにならない。
だからまず神を愛するために必要なのは、「何が御心か」を知ることだ。
それには御心を啓示した聖書への理解が欠かせない。
聖書を理解せずに、もしくは、聖書を曲解したままでキリスト教の活動をしても、それは、神の活動ではなく、単なる自己満足である。
聖書の厳密な解釈。
リベラルがダメなのは、前提として自分の思想があるからだ。
「奇跡など起こるはずがない。すべての物体は物理法則に従う。だから、イエスが水の上を歩いたはずがない」と。
「すべての物体は物理法則に従う」という前提を持っているから、ダメ。
前提は「神はあらゆる法則を超越してすべての物体を動かす権威がある」でなければならない。
なぜならば、神は主権者だから。
神は物体についても主権者である。
だから、物理法則を超越される。
物理法則とは、「神のしもべ」である。
神の世界統治のために活動する一人の従者である。
だから、神の命令次第で停止されることがある。
リベラル派は、合理主義なる間違った思想から出発するという間違いを犯している。
この世界は閉じられた系ではない。被造物だけで成立しているのではない。
神が外部から働きかけ、内部において遍在しておられる。
神は超越者であると同時に内在者である。
だから、万物はその主権のもとで自由に動かされている。
神は間接統治される。
物理法則は、神の間接的な統治の代理者である。
その意味で人間と同じ。
人間も世界の代理統治者である。
このように、聖書は何かの前提をあらかじめ持ってから解釈してはならない。
聖書を解釈するのは聖書しかない。
なぜならば、聖書以上の権威がないから。
「聖書は聖書に語らせよ」。
黙示録において「毒針を持つイナゴ」が現れたら、最初に百科事典や新聞やTVや科学の教科書を見るのではなく、聖書を見る。
聖書ではイナゴはどう扱われているかと。
すると、せっかく生産した農作物を一瞬にして消滅させる裁きの道具として用いられていると分かる。
「これは、裁きの象徴ではないか」と考える。
しかし、聖書を至高の権威として認めないディスペンセーショナリストは、「これは戦闘機だ!」という。
黙示録を未来を予言したノストラダムスの予言本と勘違いしているから。
自分の前提から読んでいく。
これだと聖書の意味がわからなくなる。
(2)
どうしてこのような私的解釈が通用するかというと、「神を愛する」という動機がないから。
神の御心は何か、を知るのではなく、まず「自分は何を信じたいか」がくる。
だから、聖書は、「自分の意見を確認するための参考書」でしかない。
本当のクリスチャンは、前提を自分の思想に置かない。
聖書に聖書を語らせ、聖書を最終権威として尊重する。
これによって、神の御心がわかる。
そうしたら、その御心の実現に集中する。
世界に蔓延しているキリスト教とは、自分の思想にキリスト教というレッテルをはったものであり、本物ではない。
すでに述べたようにそれはイルミナティの偽装である。
(3)
本物のクリスチャンが集結しつつある。
聖書啓示を最終権威とする人々。
神を第一に愛する人々。
彼らが集まりつつある。
そして、その群れが全国、全世界に広がる。
イルミナティの影響から解放された本物のクリスチャンの群れが全世界に広がり、世界を支配する。
聖書啓示を軽視する人々はその中に入れない。
(4)
神を愛するわれわれには失敗はない。
全部、利益になるから、どう転んでも勝ち組である。
失敗してもくよくよするのは自分で解決しようとするからだ。
全部任せなさい。
神に任せて、「失敗をあなたにゆだねます」と言え。
そうすれば神は、すべての失敗を成功に変えてくださるだろう。