オーバン・アヴェニュー神学は異端以外の何物でもない4


かつて所属していた教会がオーバン・アヴェニュー神学に傾き、次第に牧師の説教がおかしくなっていった。

牧師に直接「ゲルハルダス・ヴォスによると、アダムには人類を代表して神の法を守る使命を与えられていたが、失敗したので、神がキリストを第2のアダムとして使わされて神の法をすべて守らせたのではないですか。」と聞いた。

その答えはあいまいであった。

礼拝後にあった学習会でも、二契約説になると説明が不明確であり、教会を去った後に、まだ教会員として留まっている人からの情報で「二契約説を捨てた」ことが判明した。

再建主義に対しては、内部からの攻撃は主に2つある。

それについて説明する。

(1)フルプレテリズム

フルプレテリズムに関しては、初期の共働者であった牧師が、この教えに堕ちたので、関係を切った。

フルプレテリズムの基本的な間違いは、「二段階の聖め」を採用しないことにある。

律法では、聖めは3日半後に一回目、そして、7日目に二回目の聖めが必要とある。

フルプレテリズムによると、キリストの第1回目の再臨で聖めは完全になった。

つまり、紀元70年の再臨において全世界の聖めが法的にだけではなく、実際的にも完了したと。

フルプレテリズムを採用すると、主に次の問題が起きる。


1.今のこの世界が実際的にも完結した世界なのか。悪霊が活動しているこの世界が完全成就した世界なのか。

読者はすぐにお分かりのように、今の世界において、キリストはメシアとして受け入れられているわけではないし、イザヤ書にあるような「御言葉があまねく宣べ伝えられている」状態ではない。

依然として、反キリストの霊的、実際的活動は盛んで、イルミナティによる世界支配が目前に迫っている。

2.紀元70年において、大宣教命令が成就したならば、われわれの時代において大宣教命令に意味はあるのか。世界伝道は不要なのか。

紀元70年で世界が実際的にも完結しているならば、「一体伝道に何が意味があるのか」という問題になる。

あの時点で世界には福音を聞いたことがない人が無数にいるわけだから「すべての造られた人に福音をのべつたえよ」とのイエスの命令は成就したことにはならない。

以上の理由から、われわれは今の世界を「実際的に」聖められた世界と見ることはできない。

フルプレテリストは、次のことを理解すべきだ。

紀元70年の再臨は、第1回目の聖めであり、それは、「法的」である。

つまり、イエス・キリストが法的に世界の王となり、世界は法的にキリストの所有となった。

しかし、これは「法的な」聖めであるため、それを実行しなければならない。

立法府が法律を定めただけでは意味がなく、それを行政が実行しなければならないのと同じように、クリスチャンは、この「キリストの所有となった世界」を現実化しなければならない。

その現実化が完成したときに、第2回目の再臨がある。

フルプレテリズムを採用すると、伝道は死ぬ。

逆に、非プレテリズム、たとえば、プレ・ミレのように考えるとキリストの王国宣言を合理的に解釈できなくなる。

彼らは、こう述べる。

紀元70年における再臨は再臨ではない。世界の現状を見給え。これが、キリストの御国ですか?戦争や迫害が多発するこの世界が?

しかし、キリストは「天地において、すべての主権がわたしに与えられた」「私は世を征服した」との宣言は嘘ということになるのだ。

この2つの極端な立場を避けて、真に聖書的な立場に立つならば、「2段階の聖め」を採用するしかない。

フルプレテリズムもプレ・ミレも間違いである。


(2)オーバン・アヴェニュー神学

オーバン・アヴェニュー神学は、グノーシスである。

オーバン・アヴェニュー神学を通じて、再建主義者の中にローマ・カトリックと類似した霊が入った。

先のブライアン・シュワートリーがまとめた表に、オーバン・アヴェニュー神学の主張の要点がある。

「クリスチャンは、信仰と忠実(つまり、個人的な服従を貫くこと)によって義と認められる。」
http://www.millnm.net/qanda4/FVlist.htm

この「信仰」+「行い」=「義認」という図式は、ローマ・カトリックのものであり、「イエス・キリストは唯一の救い主であり、行いによっては義と認められない」という聖書の基本的な教えに対する違反である。

イエスの罪なき人生は、御民が従うための忠実の模範にすぎない。

オーバン・アヴェニュー神学では、「イエスは、律法を成就する必要はなかった」と考える。

なぜならば義認とは、「人間の努力で達成するもの」だから。

ここにオーバン・アヴェニュー神学における礼典に対する異様な執着が説明できる。

私が教会を去るころには、聖餐式の前に訪問者に対する牧師と長老による別室での個別質問が行われた。

信仰の有無を調べる質問に対する回答如何で、聖餐式への参加がチェックされた。

もちろん、ノンクリスチャンに聖餐を授けるわけにはいかない。

それは、イエス・キリストへの冒涜である。

しかし、普通の教会では、聖餐式が始まる前に「信仰をお持ちでないかたは、聖餐を食することをご遠慮ください」との断りがあるだけである。

そのほかにも、会員制などいろいろな部分に「教会制度」へのこだわりを見た。

あたかもローマ・カトリックや英国国教会のような高教会の傾向が現れて不思議だった。

私は、今こう考える。

「あれは、行為義認に傾いたからだ」と。

オーバン・アヴェニュー神学を受け入れたために、「信仰のみによる救い」が捨てられ、「人間の行い」が追加されたのだ。

だから、ローマ・カトリックと同じように、「教会の外的システムによる救済」が強調されるようになった。

私は、この神学の立場を取るすべての人に警告する。

オーバン・アヴェニュー神学は、異端であり、その立場を取る限り、いのちの書から名を消されると。

 

 

2014年4月15日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net