献身者は神殿のためにえり分けられた器である
このHPで伝えていることに「意図的なあてつけ」はない。
たとえ自分にふさわしいメッセージがあっても、それは、特別にその人に対して向けたものではない。
神は超自然的に示されるのである。
牧師のメッセージが自分にぴったりだったという体験があるだろう。
神が牧師に語らせるからだ。
それゆえ、牧師が何を言ってもそれを逆恨みすべきではない。
もしあてつけて言う牧師がいたら、「講壇を自分のために利用した」罪、つまり、偽預言の罪によって裁かれるだろう。
神に献身した人間は、自分の利益のため、戦略のため、計画のためにメッセージをゆがめてはならない。
自分にとって利益があろうがなかろうが、まっすぐに伝えるしかない。
それをしないと裁かれる。
ヨナはニネベに対して警告せよと神に命令されたが、それを回避し、逆の方向に逃げた。
しかし、嵐に巻き込まれ、船が沈みそうになった。
同乗している人々は「誰が原因かくじを引こう」と言って引いたら、ヨナに当たった。
ヨナは「実は私は神に命令されて預言者としてニネベに使わされたのですが、それを避けて逃げ出したのです」と告白した。
海に投げ捨ててくれと彼らに頼んで、投棄されると、大きな魚に飲み込まれた。
三日三晩腹の中にいて、陸地に投げ出された。
預言者が、預言することを回避すると、自分もめちゃくちゃになるだけではなく、周りの人々にも迷惑がかかる。
自分の使命を忘れた献身者は、社会の害毒である。
御言葉を伝えるために召された人間は、利益に無関係に真理だけを伝えなければならない。
そうしなければ、自分の周りの人間を巻き込んで地獄を味わわせるだろう。
だから、神の言葉を伝える活動をするこのHPに記されていることは、功利とは一切無縁である。
私はそういう意味において人の顔色を見ない。
というより、見ると、自分と環境がめちゃくちゃになる。
御言葉の世界は、この世の商売などの世界とはまったく別であり、聖別された人は、聖別された事しか話せないのである。
献身者は、神殿のためにえり分けられた器であると自覚されたし。
2013年3月4日
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