血に拘泥する思想は聖書的ではない


松本人志は、次男坊である。

彼の父親は「俺は隆博(兄)だけでいい(つまり、姉と人志はいらない)」と言った。

だから、父親に散歩に連れていかれたときに、自分がどこかに置き去りにされるのではないかとひやひやしたという。

子供は、神が与えてくれるものだ。

だから、どの子供でも不要な子供などいない。

親は神から任されたと考えて育て方について責任を負わねばならない。

妊娠中絶は、「子どもは神からの委託である」という考えの拒絶である。

「経済的な理由」は、商品やペットの購入などには通用しても、子どもについては当てはまらない。

明らかにそれは神の権威への挑戦であり、殺人である。

自殺も同じように、神からの委託の拒絶である。

我々の人生とは、「神から命を委ねられた」ということだ。

自分が生まれてきたということは、自分が神に「おまえに命を与えるから生きなさい」と委ねられたことを意味する。

だから、すべての人に使命がある。

自殺は、この使命の拒絶であるから、神から大きな裁きがくだる。

自殺して楽になるなど大変な誤解だ。

神に対する最大の責任放棄である。

中絶も同じように責任放棄である。自分に育てる能力がなければ、誰か育児を請け負う人に預けるべきだ。

神は、このような罪に対して皮肉で応じる。

松本人志の場合、父親にとって次男坊など重要ではなかった。長男に期待していた。

しかし、どうだろうか。次男坊のほうが才能に恵まれていて、億の金を稼ぐ金の卵を産む鶏だった。

人間の判断は間違う。神の判断より自分の判断を選択する人に対して、神は非常に皮肉なことを行われる。

「経済的に無理だから」などといって中絶しようとした子供が、将来ものすごい偉人や有能な人物に育つ可能性がある。いや、神はしばしばそのようなことをされる。

今65億人の人口は無駄飯食いだなどと考えているこの世界の超金持ちたちは、神の選択に対して挑戦している。

本当に無駄飯食いなのだろうか。

今の技術や能力によって「人口は多すぎる」などといってはならない。

将来、その無駄飯食いに思えた人の中から、大変すばらしい発見をして、この多くの人々を養う画期的な技術を開発するかもしれない。

(実際には、65億人だろうが100億人だろうが、地球はすかすかである。今の全人口を北海道に移住させても一人当たり10平方メートルの土地を与えることができる。人口が多すぎるとは、人殺しを楽しむサタンのプロパガンダなのだ。)

子供ができたということは、選択できる問題ではない。

絶対に生まなければならない。

里子をほしがっている夫婦はたくさんある。

不妊の夫婦は、人工授精という手段を取るよりも、神から恵まれない子どもを育てる使命を与えられたと考えて積極的に養子を取るべきだ。

我々は、みな養子である。

キリストにあって、神の子とされた。

だから、養子だから一段低いということではない。

血によってユダヤ人かどうかを判断するような考えは、聖書には存在しない。

ユダヤ人とは、全員がアブラハムの血縁ではない。アブラハムの家には使用人もいた。彼らも割礼を受けるように命令されて、アブラハムの霊的家族として加えられ、ユダヤ人になった。

だから、イエスの時代にしても、現在にしても、ユダヤ人(スファラディにしても、アシュケナジーにしても)が全員血族としてアブラハムの子孫であるかどうかは不明だ。

アブラハムの家にいた、使用人も奴隷もみな契約に入りユダヤ人の先祖になった。

血に拘泥する思想は、聖書的ではない。

 

 

2010年9月16日

 

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