分裂について


ある都市の集会に招かれて牧師をしていた。

その招聘した集会のリーダーが、ある時「先生、そういう風に聖書を読んだらだめなんですよ」といった。

これは、決定的である。

教えに関して招聘した人間に教えに関して文句を言うならば、別れるしかない。

リーダーは2人いたらだめ。

そのリーダーに対して、教えに関して文句を言うならば、自分が出るか、その批判者が出るしかなくなる。

招聘元が、牧師に対して教えについて文句を言うことは、その牧師に出ていってくれというのと同義である。

だから私はそこを出た。

教えや思想、理念は、どの組織においても中心であり、そこにおいて違う人間は、いずれ出るしかなくなる。

教えそのものについて異議を唱える人とは一緒にやっていくことはできないので、別れるべきである。

そしてこのような別れには聖書的正当性がある。

もちろん、相手を永遠に拒否するということではない。

なぜならば、相手が聖書に立ち返る可能性もあるからだ。

しかし、同じ教会において、立場を頑強に主張し続ける2人がいたら、別れるしかない。

混乱が起きて、他の教会員に迷惑がかかる。

神が望んでおられるのは、それぞれの考えで平和に集会を持つことである。

革命を起こそうなどと考えるべきではない。

異端の場合には、話は別だ。

たとえば、フェデラル・ヴィジョンとか、フルプレテリズムとかについて、「考え方が違うから別れた」ではすまない。

教会は、異端を唱えた人を除名し、陪餐停止にしなければならない。

しかし、中世のような処刑のようなことはすべきではない。

なぜならば、聖書が「1,2度戒めて放置せよ」と述べているから。


分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。(テトス3・10)

相手を潰すのは、やり過ぎである。

福音を受け入れない人に対する態度は、「無関係を宣言することだけ」である。

もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイ10・14)

人間ができるのはそこまで。

それ以上は、神が行われる。

神の裁きを待つべきである。

所属している教会の牧師が聖書的ではない教えを唱えはじめたら、長老を通じて警告し、それでも変わらないなら、こちらから穏便に出るべきである。

その異なる教えを唱える教会はいずれ消滅する。

それは神の裁きである。

ディスペンセーショナリズムに関しては明らかな異端なので、切迫再臨を唱えるならば、そこから出る正当な権利がある。

そのような教会に献金をするならば、ディスペンセーショナリズムを通じて聖書信仰と世界を破壊する活動を支援したことになるので自分にとっても有害である。

気づいた者は、新しく集会を開いて聖書的な群れを作るべきだ。

 

 

2014年12月15日



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