科学を絶対視する限りサタンの騙しは続く


(1)
われわれがTVのニュースで新しい動きを目にするころには、すでにその専門家の間では常識化しており、次の、もしくは、次の次の動きに移っていることが多い。

たとえば、姉歯の手抜き工事の話題が報道されたとしても、それについて専門家、大工さんの間では、10年も前から言われてきたことであり、彼らからすれば「ついに明るみに出たか」という程度のことでしかない。

世間で大事になるような問題は、専門家は何十年も前から考えている。

だから専門家は、専門家の間での議論を重視する。

素人にどう思われてもいいのである。

もちろん、それによって給料に影響があれば、問題だが、そうでもない限り、大学の研究室で問題になっていることについて素人が何を言っても無視する。

キリスト教のパラダイムシフトがそろそろ認知されようとしている。

しかし、それは、神学者の間では30年も前から言われてきたことである。

30年前にディスペンセーショナリズムへの攻撃は行われていた。

再建主義者たちは、矢継ぎ早に著書を発表した。

とくにゲイリー・ノースのスピードはすごかった。

毎月1冊出しているという印象を受けたものだ。

30年前にわれわれの間で進んでいたパラダイムシフトが、今、一般の教会の信徒に知られるところとなった。

まだまだクリスチャンの目が覚めているとは言い難いが、今後教会で起きる大きな変動は、何年か後には、世俗においても起きるだろう。

(2)

私の陰謀論の文章を引用しているあるサイトの管理者は、聖書信仰ではないので、聖書に解決を求めない。聖書によって解決しようと勧める箇所には、「科学的にこれは間違いだ」というコメントがつけられている。

科学的知見を聖書の記述の上に置く行為そのものが、イルミナティ・フリーメイソンの「知識教」なのである。

本当に彼らの洗脳から脱出したければ、聖書を究極的権利とするしかないのである。

「聖書を絶対視する?非科学的だ」というかもしれないが、人間理性を究極の権威として置く立場(*)も証明することはできないので、聖書信仰に非科学的というレッテルをはることはできない。

「最新の科学的な知見」は「最新の科学的な知見」でしかない。

それが真理かどうかは不明だ。なぜならば、科学で得られた知識は反証の可能性を常に備えなければならないものだから。

われわれ人類は、神に対する忠実から落ちて、「神の知識すらも超えることができる」というサタンの声に従った。

科学的知見を聖書の上に置くのは、罪であり、そのような立場が真理に導かれることを期待はできない。

科学を絶対視するような認識論を持っている限り、サタンの騙しは続く。


(*)

この立場は、ジョン・ロックにおいて否定され、それに反証はできていない。

人間が知ることのできることは、この世界のごく一部でしかなく、そのごく一部の知識を世界全体に敷衍する権利は人間にはない。

科学的知識は帰納法的認識論に基づいているが、実験で得られたデータは数が限られている。

データを30個集めたとする。それに法則性を見つけて関数化し、時間を横軸にとったチャートに直線や放物線や曲線などを引いても、(時間が人間の測定できる限度を超えた場合)その線上の任意の点が、実際の数値を反映しているかどうかは不明だ。

厳密な帰納法的認識論に基づいて考えると、集められたデータは30個であれば、その30個の知識しか得られない。

それを関数化して、それに基づいて無数の時間の場合の数値を得られると考えるのは「科学者の約束事」でしかない。

 

 

2014年7月13日



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