6プラス1の原理


目の前の現実を優先してものを考えると、無間地獄に入る。

たとえば、震災などの圧倒的な不幸を目の前にして、自分の頼っていたものが崩壊するのを目の当たりにして、「もうだめだ」と考えたら、サタンの手に落ちる。

イスラエルは荒野をくぐった。

40年間。

荒野とは、岩と砂しかない昼は灼熱地獄、夜は寒さにこごえる場所である。

この過酷な状況の中で神に信頼することを学ばねばならなかった。

約束の地カナンに入るには、「約束だけで現実を無視することを訓練された人」しか入れなかった。

カナンに事前偵察に入った人々の証言「カナンの住民は背が高くて強そうだった」に怖気づいて、しり込みした人々は、手前で処分された。

つまり、約束の地には入れないと宣告され、砂漠で死んだ。

約束の地に入った人々は、ヨシュアとカレブだけだった。

あとは、疑った人々の次の世代の人々。

「現実を見る」ことそのものが間違っているわけではない。

「科学的に物事を見る」ことそのものは間違いではない。

間違っているのは、「神が大丈夫だと言われているのに現実を優先すること」である。

神が「カナンに入って占領せよ。できるから、やれ!」といわれているのに、現実を優先し、「敵は強すぎてムリだ」と判断することである。

ディスペンセーション主義は、こういう現実主義である。

聖書が「地を従えよ!」と命令しているのに、「現実を見なさい。こんなに強いサタンが世界を牛耳っている。どうしてできますか?」という。

実際、ハル・リンゼイのポスト・ミレ批判はこの理屈に基づいている。

「現実を見ろ!」という声は、よく耳を澄まして誰が言っているか聞き分ける必要がある。

全部が全部サタンの声というわけではない。

場合によっては神の場合がある。

たとえば、現実的なことを批判するあまりに医者にかかることをやめてしまうことがかえってサタンである場合もある。

「医者にかかるなんて不信仰だ!」といって治るものも治らない場合がある。

要するにバランスなのだ。

私は、現実主義と信仰主義のバランスを6対1と考えている。

つまり、「6日働いて1日休め」の原理。

6日は人間が努力する期間。1日は努力を禁止される期間。

6日は人間が現実的になる期間。1日は信仰だけに頼る期間。

6日だけを重視すると「神なんていらない。宗教なんて現実と無関係だ」になる。

1日だけを重視すると「医学なんていらない。医療に頼る人は不信仰だ」となる。

神は人間に「6日働いてすべての仕事をして、1日完全に休め」といわれた。

われわれは、全力を尽くして人間としてできることをすべてしたら、あとは1日全部放り投げて神様にやっていただくべき。

つまり「人事を尽くして天命を待て」という教え。

この「6プラス1の原理」こそが聖書的である。

現実を見すぎることも、まったく見ないことも、どちらも間違い。

このバランスを崩すと、敵の餌食になるから注意が必要だ。

 

 

2011年5月24日

 

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