学問においても無制限の自由は原理的に存在しない
1.
何についても言えるが、「無制限の自由」は存在しない。
商行為は自由であるが、北朝鮮の核武装にとって有利になるような商品の取引は規制される。
日本国の防衛にとって脅威になるような商行為は禁止されるべきである。
学問の自由も、それを高らかに唱道する大学自体が制限している。
現在、大学では、兵器研究を行わない。
大学は左翼に支配されているので、日本の軍事力強化に協力したくないからである。
これは憲法9条同様、敵国を利するのでおかしな決定である。
このことからわかるように、その国が依拠する土台を破壊するような学問に自由が与えられるわけがない。
たとえば、暴力革命による体制転覆を主張し、テロ活動を支援する極左思想に利する学問を野放しにはできない。
極左思想を客観的に調べる研究はよいが、それを広める活動は規制されるべきである。
聖書的キリスト教国において、学問の自由は、神の言葉によって制限されるべきである。
「それじゃあ、中世のスコラ学に戻れというのか」という批判があるかもしれないが、的外れな批判である。
科学は、実証性と帰納法的認識論を重んじるので、データを集めることのできないものは、そもそも科学の対象にならない。
死後の世界を調べようにも、データを集めることは不可能である。
それゆえ、今の科学であっても、思想や世界観による制約を受けている。
どの科学者でも、ある一定の思想に依拠しており、「純粋に事実に立脚する」ことは無理なのである。
これはトマス・クーンが『科学革命の構造』で明らかにしたところである。
科学者は、その時代時代に支配的なパラダイムに支配されている。事実がそのパラダイムの中で説明できなくなると、新しいパラダイムが必要になる。
実証主義や経験論に基づく帰納法認識論に立つ「純粋な科学」は、たとえて言えば、大きなチーズの一部分を食べることができる人のようである。
大きなチーズに穴をあけて、一部分を食べることができるが、全体を食べられない。
全体を食べるには、思想や世界観が必要である。
個別の科学的知識は、そのごく限られた範囲の知識でしかない。個別の科学的知識と他の科学的知識を結びつけるには思想を必要とする。
たとえば、今の科学の前提は、進化論である。
今ある宇宙は、ビッグバンから始まる進化の連続によって成立したと。
しかし、進化論では個別の事象が説明できなくなっている現在、このパラダイムは転換しつつある。
2.
実証的科学は「多」の方法である。
思想は「一」である。
「多」だけでは、人間は総合的な知識を得られない。「一」を必要とする。
現在の科学界でも、進化論という「一」が必要である。
有限な存在であり、全体を客観的に把握することが原理的にできない人間は、常に思想や世界観を必要とする。
3.
聖書的キリスト教が支配的になる社会において、「一」とは聖書である。
圧倒的な数の人々がクリスチャンになった社会は、「聖書的キリスト教に基づく国家体制」を求めるだろう。
そのような国家においては、聖書啓示に反する学問には制限がかけられるだろう。
この制限を否定する人は、国家の運営側に回ることは許されず、参政権は与えられないだろう。
神は永遠の昔に、すべての国が、このような体制に変わることを予定された。
世界史はこの方向に向かって進展しており、このコースを覆すことはできない。
2018年5月5日
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