現代の教会がローマ・カトリックに接近している理由


そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
{そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。」}
そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。(使徒の働き8・27-39)

使徒8・37は、エチオピアの宦官とピリポの会話である。

ダービーの聖書では、使徒8・37は訳されていない。依拠するアレキサンドリア写本では訳されていないからである。

しかし、Textus Receptusと、それに依拠するKJVでは訳されている。新改訳と口語訳、リビング・バイブルも括弧つきで訳されている。

Stephens 1550 Textus Receptus

#gs#eipen de o filippos ei pisteueis ex olhs ths kardias exestin apokriqeis de eipen pisteuw ton uion tou qeou einai ton ihsoun criston#ge#

Scrivener 1894 Textus Receptus

#gs#eipen de o filippos ei pisteueis ex olhs ths kardias exestin apokriqeis de eipen pisteuw ton uion tou qeou einai ton ihsoun criston#ge#

Byzantine Majority

なし

Alexandrian

なし

Hort and Westcott

なし

Latin Vulgate

なし

King James Version

And Philip said, If thou believest with all thine heart, thou mayest. And he answered and said, I believe that Jesus Christ is the Son of God.

新改訳

{そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。」}(使徒の働き8・37)

口語訳

[これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。](使徒の働き8・37)

リビング・バイブル

「心から信じておられるなら、もちろんかまいませんよ。」「私はイエス・キリストを神の子と信じます。」

アレキサンドリア写本に存在しないのは、これがグノーシスの影響を受けている写本であるという背景から説明がつく。

「肉体を悪、霊を善とみる」グノーシスの立場からすると、肉体を持つイエスを神とすることは許されないからである。

注意すべきはビザンチン(マジョリティ・テキスト)は訳されていないという点である。

大多数の写本に存在しないということは、この箇所が原典に存在していたのかという疑問が残るということを意味する。

しかし、内容そのものには問題はない。

残念なことに、新改訳で育った私には、この箇所を読んだ記憶がないのである。第1版には、なかったのではないか。

聖書の中で「こんな箇所があったのか」という疑問が起きるのは、きわめてまずい。

なぜならば、聖書は、われわれにとって糧だからである。

われわれの実存の本質を形成する御言葉に欠陥があることは重大な問題である。

現在、アレキサンドリア写本に依拠する翻訳聖書しか出版されていない。

ビザンチンとマジョリティ・テキストに触れずに、われわれは信仰生活を送ってきた。

つまり、5000箇所以上、場合によっては1万箇所もの御言葉に触れていない恐れがある。

これで信仰がダメにならないはずがないではないか。

初代教会の時代から、サタンは、クリスチャンが御言葉に触れることのないように、様々な人を使って工作活動をしてきた。

グノーシスに汚染されたローマ・カトリックは、ラテン語しか出版せず、人々が現地語で聖書を読めないように画策した。

そして、現在、ローマ・カトリックの回し者ウェストコットとホートが、マジョリティ・テキストを捨てて、アレキサンドリア型写本(バチカン写本とシナイ写本)を採用したテキストを用いてギリシャ語聖書を編纂し、それに基づいてほとんどの現代語訳が作られている。

われわれが御言葉から遠ざけられているとしても不思議ではない。

2.

多くの学者や教師が唯一のテキストとして使用し、ほとんどの現代語訳聖書が依拠しているエベルハルト・ネストレの初版ギリシャ語聖書(Novum Testamentum Graece)は、ティシェンドルフの写本(シナイ写本)と、ウェストコットとホートのテキスト、ウェイマスのテキストに基づいている。

ネストレの第27版では、プロテスタントの翻訳者も参加しているが、関与したのは補足部だけであり、本編はバチカンが監修した。

https://www.scionofzion.com/counterfeit_versions.html

実際、第27版の編集者にはカルロ・マルティニというイエズス会の枢機卿が含まれている。

1955年にM・ブラック,B・M・メッツガー、A・ウィクグレンとともに、K・アランドがギリシャ語新約聖書編集委員会に招待され、最初はA・フォーブス、後にC・M・マルティニが招かれた(1982年からはB・アランドとJ・カラヴィドプロスも)・・・。(中略)

これらの2つの版で共有されたテキストは、世界各国の聖書協会によって採用された。それは、バチカンと統一聖書協会の間の合意に基づき、新しい翻訳と、彼らの監督の下で行われた改訂の基礎として役立ってきた。
https://archive.org/stream/NestleAland/Nestle-Aland_djvu.txt

現代のクリスチャンが読んでいる聖書は、ローマ・カトリックの写本を用い、バチカンの監督のもとで、イエズス会の編集者によって編纂されたギリシャ語テキストから翻訳されたものである。

これで現代の教会がローマ・カトリックに接近している理由が明らかになった。

 

 

2019年7月11日



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