(1)
矛盾するようだが、聖書では、正しく育てたにもかかわらず放蕩をする子供もいる。
かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。(申命記21・18-21)
「かたくなで、逆ら」い、「父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わない」子供がいる。
これは、完全に子供の側の問題である。
父母は神が命令された「訓戒と懲らしめ」を行った。
父母の側において義務を果たしても、なおも「かたくなで、逆ら」う子がいる。
だから、非行の子供の存在が必ずしも両親の問題とは限らない。
しかし、父母の側で、神が命令された義務を果たさない場合には、そういう子供が育った場合、それは父母の責任である。
つまり、「訓戒と懲らしめ」を怠った場合である。
今、非常に危険な風潮が現れつつある。
それは、「体罰へのアレルギー」である。
柔道女子ナショナルチームのメンバーによる抗議がIOCに届いた。
コーチのパワハラである。
たしかに、行き過ぎた行為があった場合は問題だが、それが、家庭における体罰をも禁止するような風潮になれば問題である。
なぜならば、聖書は体罰を命じているからである。
むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。
子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。
あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。
馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。
むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(箴言13・24、23・13-14、26・3、29・15)
体罰、しかも、ムチは、聖書の命令であって、選択できる問題ではない。
クリスチャンで、体罰の禁止を公言し、言い張る人がいたら、付きあってはならない。
彼らは、神に対する挑戦者であり、悪魔に従う者である。
(2)
神ご自身が体罰を行う方である。
われわれは、あまりにも頑固だと肉体に対する痛みを伴う刑罰がくる。
肉体の痛みによってわれわれは「我に返る」。
人生の厳粛さを「思い出す」。
人生が冗談でも遊びでもないことに気付く。
痛みがなければ、神を愚弄する。
イエス・キリストの十字架がそれを示している。
十字架刑の痛みと苦しみは、本来われわれが負うべきものである。
もし、この世界において、罪を犯しても体罰がなければ、イエス・キリストの十字架は不要である。
罪には必ず体罰が伴うことを十字架は示している。
われわれは、罪を犯したら血を流さなければならないのである。
どの人間も、体罰を受けなければならない。
「体罰は野蛮だ。文明国としてふさわしくない」とか「死刑は、もはや時代遅れだ」といった主張は、十字架の否定である。
これは、「罪の支払うべき報酬は死である」という聖書の図式を無視している。
罪とは、われわれに体罰と流血を伴う死を要求する重大事である。
体罰の禁止や死刑廃止の運動は、この現実を無視した「盲人の手引き」である。
(3)
グローバリストたち、ロスチャイルド・イルミナティの計画は、死刑廃止である。
その証拠は、国際連合が推進していることである。
世界政府は、「死刑と体罰が廃止された世界」を目指している「格好」をする。
実際は、世界政府の実現とともに、大量虐殺が待っている。
人類の人口を5億人に減らす。
そのような意図は、ジョージア・ガイドストーンを見れば明らかである。
死刑や体罰の禁止は、単なる幻想に過ぎない。
われわれは、訓練において体罰を禁止することはできない。
「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち」。
「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる」。