ルターの異端的な発言について


M様

メールありがとうございました。

キリストが姦通をしたという箇所がどこにあるのか教えていただけますでしょうか。

もしそれが本当にルターの発言であれば、完全な誤謬ですが、引用された箇所は、ルター一流の逆説的な言い方であるか、もしくは、様々な背景のもとに特別な意味をもって記されたように思えます。歴代のクリスチャンたちは、そのように捉えたので、今日でもルター派が残っているのかもしれません。

お示しいただいたページに記されたルターの引用について述べたいと思います。

https://www.jesus-is-savior.com/False%20Religions/Lutherans/truth_about_martin_luther.htm


「罪人になれ。あなたの罪を大きくせよ。しかし、キリストに対するあなたの信頼を強くせよ。罪と死と世に勝利されたキリストを喜べ。現世にいる間、われわれは罪を犯すだろう。なぜならば、この世は正義が存在する場所ではないからだ。・・・いかなる罪もわれわれをキリストから引き離すことはできない。たとえ殺人や姦通を日に何千回繰り返したとしても。」('Let Your Sins Be Strong, from 'The Wittenberg Project;' 'The Wartburg Segment', translated by Erika Flores, from Dr. Martin Luther'sSaemmtliche Schriften, Letter No. 99, 1 Aug. 1521)

この文の真意は、罪を奨励することではなく、キリストの犠牲に基づく赦しへの絶対的信頼の勧めです。しかし、最初の箇所を切り取って、罪の奨励として解釈した人々がいたことはあったかもしれません。それが無律法主義になり、ドイツ30年戦争での無法行為につながったのかもしれません。

ルターは、ローマ・カトリックの「行為義認」を拒否するあまり、過度の信仰義認に走り、聖書の法を軽視する結果になった可能性は否定できません。

「天国に入ろうとして善を行う敬虔な人々の努力はまったくの徒労に終わるだろう。むしろ、彼らを不敬虔な人々のうちに数えるべきである。彼らが罪を犯さないように守るというより、善を行わないように守るほうが重要である。」(Wittenberg, VI, 160, quoted by O'Hare, in 'The Facts About Luther, TAN Books, 1987, p. 122.)

これは、善行を禁止せよと言っているのではなく、行為義認を信じる人々の善行が無意味であり、かえって神の不興を買うことを逆説的に言っていると解釈すべきです。

「神について、そして救いや永遠の呪いに関するあらゆる事柄において、(人)は『自由意志』を持たず、神の意志かサタンの意志のいずれかに従うしかない捕虜、囚人、奴隷である。」(From the essay, 'Bondage of the Will,' 'Martin Luther: Selections From His Writings, ed. by Dillenberger, Anchor Books, 1962 p. 190.)

「・・・われわれは、すべてのことを必然から行っているのであって『自由意志』で行っているのではない。というのも、『自由意志』は無力だからである・・・」(Ibid., p. 188.)

「人間は馬に似ている。神が鞍に飛び乗ると、馬は従順になり、騎手のあらゆる動きに適応し、騎手の望むあらゆる場所に移動する。神が手綱を取ることを止めるならば、サタンが背中に飛び乗り、馬は新しい騎手の拍車と気まぐれに付き合うようになる・・・。それゆえ、自由意志ではなく、必然こそが、われわれの行動の原理なのである。神は善だけではなく、悪の作者でもある。幸いに値しない者に幸いを与え、呪いに値しない者に呪いを下される。」('De Servo Arbitrio', 7, 113 seq., quoted by O'Hare, in 'The Facts About Luther, TAN Books, 1987, pp. 266-267.)

つまり、人間は、神か悪魔の奴隷であり、自発的に行うことはない、と言っています。常に、霊的な存在によって動かされているのだと。

これは、一部正しい。われわれは、善であれ悪であれ、神の許可のもとに行っています。神の許しなしには、悪すら行えません。

「神は誰をも誘惑されない」(ヤコブ1・13)と聖書にあるので、神が人間を悪に誘惑し、罪を犯させることはないが、人間が自分で堕落するのを放置することはあります。
人間は、「常時、神の許可・不許可の決定のもとにある」という意味において「自由意志は無力だ」と言えますが、神と悪魔の両方からの働きかけがない状態で自発的な行動をすることがあり、その意味において「自由意志は無力ではない」と言えます。われわれは、悪魔の誘惑がなくても罪を犯すことがあります。

馬はロボットではありません。馬は騎手の意志と無関係に動くことがあります。

「神は善だけではなく、悪の作者でもある」

ここで、ルターが「悪」と呼んでいるものが、文字通りの「悪」を意味するならば、彼の発言は間違いです。

「幸いに値しない者に幸いを与え、呪いに値しない者に呪いを下される」

神がヨブに呪いを下されたのは、彼が罪を犯したからではありませんでした。神は、ヨブを試され、訓練されたのです。人間は、幸いだけを与えられると、成長しません。苦しみの中で真理を悟り、さらに高い霊的な知恵を得ることができます。

ルターがこのような目的での「悪」を意味しているならば、神は「悪の作者でもある」と言えます。つづく

 

 

2018年4月14日



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