聖書が示す創造の意味
”太陽なしでどうやって4日過ぎたんですか?”
1.
太陽ができて地球の自転周期に合わせて1日とするという形式をあらかじめ前提として、日をカウントしたということ。
神は創造の計画をあらかじめ立てていたので、太陽が現れるまでの間、太陽が現れた後のリズムを適用しても何も問題はない。
太陽ができるまでの間の朝と夕は、神が(太陽からのではない)光を点滅されたということ。
これは、非常に契約的な表現である。
つまり、「はじめに光を創造され、その光を担うものとして太陽を創造された」。
太陽が最初からあった、または、最初から太陽が光を発したというのではなく、光を管理するものとして太陽が存在する。
つまり、太陽とは「権力代行者」である。
これは太陽崇拝の否定である。
聖書は、徹底して被造物崇拝を否定している。
神は太陽に昼を、月に夜を管理させた。
そして、人間に地を管理させた。
古事記や日本書紀も同じような記述になっている。
古事記によれば、天照大神は、伊邪那岐命から生まれた三神の一人、太陽神である。伊邪那岐命は、天照大御神には太陽の神として宇宙全体を治めるように、月読命には月の照る夜の国を治めるように言った。これは、創世記第1章において、神が「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」(1・16)と言われたことを連想させる。また、須佐之男命には地球を治めるように命じた。これは、神がアダムを創造され、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1・28)と言われたことを連想させる。
つまり、聖書と日本神話は、「至高者なる神と、その権力代行者としての太陽と月と人間」という構造で一致している。
これは偶然の一致と思えない。
日本神話は、聖書の契約思想に通じている人間の作である。
異教における「はじめに太陽があった」というような被造物崇拝ではない。
ちなみに、聖書契約の5条件の最初の2つは、
(1) 超越と内在
(2) 委任
である。
超越者なる神がいらっしゃり、その神が被造物に権力を委任するという構造になっている。
http://www.millnm.net/millnm/covenant.html
2.
創造の形式は、「容器」と「内容物」という形になっている。
「天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り…」(出エジプト記20・11)
「天と地と海」は「容器」であり、「それらの中にいるすべてのもの」は「内容物」。
創造の6日はこの形式に基づいている。
第一日 光 第四日 光る物
第二日 海と天 第五日 魚と鳥
第三日 地と植物 第六日 陸の動物と人間
神は最初の3日間で容器を造られ、次の3日間でその内容物を造られた。
神は一瞬ですべてを創造できるのに、このように秩序立てて創造されたのには意味がある。
「光と海、天、地、植物」は、それぞれ「光る物、魚と鳥、陸の動物と人間」のための「環境」である。
これは、「舞台」と「役者」とも表現できる。
まず「舞台」を整え、「役者」をそこに投入する。
つまり、被造世界は、一つの「演劇」である。
歴史とは、神が描かれたプロットにしたがって、役者が演じる芝居である。
太陽、月、星、人間の役割とは、空と海、大地、植物という舞台の上で、神と御使いの前で、神の栄光を表す物語を演じることである。
このストーリーはすべて決定されている。
映画を作る際に行き当たりばったりで撮影が進まないように、配役も設定もすべてあらかじめ決定されている。
どの人間がどの役を演じるかあらかじめ決定されている。
それは、永遠の昔、創造の前に決定されている。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。(ローマ8・29-30、9・23)
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、…
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行なう方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
(エペ1・5, 9, 11)
イルミナティは悪役を演じるように神が決定された。
主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。(箴言16・4)
聖書的クリスチャンは、それを退治する役として決定された。
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(ローマ16・20)
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2・10)
被造物は、永遠の昔にすでに決定されている神の国の発展と、神の民の勝利の物語を演じるための舞台であり、役者である。
3.
自分が悪役に選ばれている人は、人間的に見れば気の毒としか言いようがない。
しかし、彼が神の国に逆らい、罪を犯すときに、神が罪を犯させているのではなく、自らの欲望で罪を犯す。
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。(ヤコブ1・13)
神に逆らい、悪魔を崇拝する人々は、自らがそれを選択して行っているので言い逃れできない。
神は誘惑されないが、誘惑者の誘惑を防止せず、罪に堕ちることを抑制されないという形で、悪を行うように定められた。
これは、ピンボールの機械のようである。
神は、落下する玉を跳ね返すバーを操作しないで、そのまま落ちるようにされる。
自分が堕落するのは、それを自分が楽しみ、選択からである。
抑制の恵みにあずかる人々は、神がバーで跳ね返してくださるが、抑制の恵みにあずからず、悪役として定められた人々について、神はバーを操作されない。
4.
人間は、あくまでも被造物であり、非主権者であるから、このようなプロットに文句を言えない。
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。(ローマ9・20)
最終的に、すべての被造物は、神の前に服従し、神を賛美する。
次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」(ローマ14・11)
つまり、救われた人々だけではなく、滅びた人間も、神を賛美する。
神が正しい裁きを実行されたことをほめたたえる。
これが聖書が示す世界観である。
これに賛同できない人は、神の主権に逆らう人であり、滅びに予定された人々である。
2015年12月31日
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