神が救ってくださる


この世界は、偶然の積み重ねで成立しているのではない。

正義の神が創造され、そして、運営されている世界なのである。

だから、神の法則に従って生きるのがベストである。

神の法則とは、聖書の法である。

「この世界は権力、金、名誉だ。」と考えている人を愚か者という。

彼らは、偶像礼拝をしている。

なぜならば、この世界を動かしているのは聖書の神ではないと主張するので。

彼らは異なる法に支配されていて、その法に従って生きている。

しかし、その法とは、実は神の法によって無効にされる。

たとえば、ある人は、学校の偏差値を信じている。

大学の学部や学科の偏差値を全部記憶しており、それによって人を判断する。

しかし、世界は偏差値によって動いているわけではないので、自分の判断が無効であることに気づく。

「あれ、東大を出たのに、仕事ができない」と。

「一流大学を出ても幸せになれないのか」と。

だいたいまともな人は若い時にこの程度の判断力は身につく。

しかし、いい年をした老人が東大信仰だったりする。

とくに、学者とか教師など、実業界を経験していない業種の人に多い。

倫理を無視して、金銭を求めるようになると、しっぺ返しをくらう。

「この世は金だ!」と考え、不道徳に手を染める。

結局、みじめな破滅が待っている。

オレオレ詐欺の実行犯たちが、殺し合いをしたとニュースでやっていた。

人のものをだまし取って幸せになれるわけがないじゃないか。


あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。(申命記5・32)

『十戒』という映画がある。

海の水が壁のように左右にそそり立って道を作る中をイスラエルの人々が通った。

右や左にそれたら、水の中に巻き込まれ溺死する。

神の道は、このようなもの。

左右にそれると、地獄が待っている。

かつて対人恐怖になったとき、その原因は、価値観を崩したことにあった。

神の法ではなく、人の法に従った。

人が描いて見せる世界を世界だと勘違いした。

人が示す法を法だと勘違いした。

人が救い主になった。

自分の運命を左右するのは、人であると考えていた。

だから、人の言葉が重くなった。

どのような言葉を相手がはくだろうか、そればかり心配していた。

しかし、実際に救いは人からは来なかった。

人に依存すると、依存した相手が悪魔に変身した。

こちらを支配しようとした。

人に救ってもらおうとするのをやめた。

それから徐々にトラウマが消えていった。

人が自分のことを噂しても気にならない。

「どうぞ勝手に悪い噂を流して自滅してください」と思っている。

人間は私をどうすることもできないと信じてから、気が楽になったし、実際の生活も豊かになった。

いつも左右を見て、他人がどうするかを気にしていたときよりもはるかに自由である。

「変なおじさん」に見られてもどうでもいい。

要するに、金を稼いで、独立して生きていればいいのだ。

誰も文句は言わない。

言われたとしても、無視、無視。

本当に聖書にしたがって生きようとすれば、この世に救ってもらおうなどとこれっぽっちも思ってはならないのだ。

神が救ってくださる。

それを実体験したら心の傷とか関係ない。

 

 

2017年3月18日



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