三神論は異端である10
ただ、もし歴代の教会が、父と子と聖霊が「一つの本質から成る」と信じていたのでしたら、歴代の教会は存在論的一を信じていたのでしょう。しかし、「一つの本質から成る」ではなくて、「同一の本質を持つ」、すなわち、三位は個々に本質を持たれ、なおかつ、その本質は全て同質であると歴代の信条が告白しているのなら、存在論的一は歴史的にも異端でしょう。ニケヤ信条は後者であるように読めますが、ウェストミンスター信仰告白は前者であるように読めます。私は、後者こそ真理であると思うのですがどうでしょう。
(1)父子本質類似説(Homoiousianism)
御子は「本質において類似している」が、必ずしも御父の本質と同一である必要はない、と主張。
(2)父子類似説(Homoeanism)
御子は御父と類似しているが、本質には言及しない、と主張。この説の支持者の中には次のように主張する者もいた。すなわち、「御父は比較不能の超越者であるため、従属の立場にある御子や聖霊と本質において類似または同じといった概念を設定することそのものが異端であり、福音書による支持を受けられない。ある意味において、御父は御子と類似しているが、『本質』について語ることは不適切な思弁に過ぎない」と。
(3)父子異質説(Heteroousianism)
御父と御子は、本質及び/または属性において異なる、と主張。
以上の説、及び、4世紀にそこから派生した無数の説に対して、アタナシウスや他のニケア信条主義者たちは、その父子同質論に基づき、強くしかも執拗に反論した。彼らの説は、戦いの中で最終的に勝利し、第1次コンスタンチノープル公会議において確認されて後、2000年間東西両教会の教義となった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Homoousion
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2・6-8)
我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。
我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神[1])、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。
また我らは聖霊を信ず。
主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。
1 ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、最も賢く(13)、最もきよく(14)、最も自由(15)、最も絶対的で(16)、ご自身の不変な最も正しいみ旨の計画に従い(17)、ご自身の栄光のために(18)、すべての物事を営み、最も愛(19)とあわれみと寛容に満ち、善・真実・不義や違反や罪をゆるすことにおいて豊かで(20)、熱心に彼を求める者たちに報いるかたであり(21)、そのさばきにおいては最も公正で恐ろしく(22)、すべての罪を憎み(23)、とがある者を決してゆるさないおかたである(24)。
3 神の統一性の中に、ひとつの本質、力、永遠性をもつ三つの人格がある。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神である(1)。み父は何からでもなく、生まれもせず、出もしない。み子は永遠にみ父から生まれる(2)。聖霊は永遠にみ父とみ子とから出る(3)。
2018年11月22日
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