日本対イスラエルこそが世界の本質的なライバルである3


「日本対イスラエルこそが世界の本質的なライバルである」シリーズは、私の人生の目的の総決算である。

これが分かればいつ死んでもいいほどの知識である。

(1)

日本は、契約の民の目標の土地であった。

彼らはまとまって日本に住んだ。

ユダヤ戦争において世界に散らばった山羊系ユダヤ人は滅んだのである。

なぜならば、彼らは国を失ったからである。

申命記に「契約の最終的な裁きはパレスチナからの追放である」と書かれている。

この追放は、3度行われた。

1度目は、アッシリア捕囚。

2度目は、バビロン捕囚。

そして、3度目は、ユダヤ戦争及びバル・コクバの乱。

アッシリア捕囚では北朝の人が、バビロン捕囚では南朝の人が追放された。

しかし、そこにも少数のレムナント(残りの民)が残され、しかも、ペルシャによる解放によって一部が戻ってきた。

しかし、3度目の追放では、全員が追放された。

つまり、完全に滅んだ。

なぜか。

「預言者を送って悔い改めを何度も迫ったが、だめだった。最後に、御子を送ったがそれも殺してしまった」からである。


もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。
すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。(マタイ21・33-39)

旧約時代の最後の時代に、神はイエス・キリストを遣わされ、和解を試みられた。

しかし、ユダヤ人はイエス・キリストを十字架につけて殺した。

だから、裁きが下り、滅亡した。

この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」(マタイ21・40-41)

イスラエルは完全に滅んで、「季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たち」つまり異邦人が御国の担い手として選ばれた。

さて、イスラエルには、もっぱら悪党しか残っていなかったのか。

違う。

使徒たちと彼らの伝道によってイエスを受け入れた人々がいた。

こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。(使徒6・7)

これらの人々も裁かれたのか。

彼らも滅んだのか。彼らも異邦人の中に散らされたのか。

もしそうなら、いったい福音とはなにか、という話だ。

契約を守った人々には、契約の報いがある。

それは、あるところにまとまって住んだということである。「散らされること」が裁きであるならば、「集まること」は祝福である。

彼らは、自然の要塞である海に囲まれた日本にまとまってやってきたのではないだろうか。

それについて聖書は沈黙している。

類推するだけである。だから、絶対確実なことは誰も言えない。

もちろん、羊系ユダヤ人の一部は、その後もローマ帝国に残って、各地で教会の核を作っていただろう。

しかし、このユダヤ系クリスチャンの主要部隊は、シルクロードを伝って東に逃れ、最終的に日本に入ったのではないだろうか。

(2)

この日本にはすでにアッシリア捕囚とバビロン捕囚において刑期を終えた「赦された人々」が紀元前に移り住んでいた。

それゆえ、新約時代のユダヤ人がやってくる前にすでに南北朝の両イスラエルはそろっていた。

神武天皇とニギハヤヒとの出会いの意味は、その南北朝の人々の集団に正式な「統一」を与えることにあった。

国譲りとは、神武天皇(ユダ族ダビデ王家の血筋)がニギハヤヒ(イスラエル北朝王家の血筋)から王権を譲り受け、「正式に」南北朝の統一が成立したことを意味する。

キリストに連なるダビデ王家の到来に対して、イスラエル王家は聖書どおりに正統な血筋として王権を譲り渡した。

だから、神武天皇は、ニギハヤヒの一族を殺したり、追い出したりすることなく、共同して統治にあたった。

それが、伊勢神宮の外宮(物部氏)と内宮(秦氏)として表現されている。

伊勢神宮は、イスラエル南北朝の統一を象徴している。

(3)

ソロモン以後の南北朝分裂は、ソロモンの偶像礼拝に対する神の裁きであった。

であるから、南北朝の統一は、裁きの終焉を意味する。

申命記の契約的呪いが解除された。

イエス・キリストを信じたユダヤ人は、完全に罪を赦されたので、引き寄せられ集められた。

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。(ヨハネ12・32)

つまり、分裂していたイスラエルが集められ、回復するということだ。

すでに紀元1世紀において「地上から上げられ」たのであるから、それ以降に「分裂していたイスラエルが集められ、回復」しているはずだ。

2000年たった今になっても回復していないと考えるべきではない。

ちなみに、ロスチャイルドの教えであるディスペンセーショナリズムでは、「まだ回復していない。これから回復する」と唱える。

2000年たってもイスラエルが回復していなければ「地上から上げられるなら、…引き寄せます」という御言葉は外れたということになる。

もちろん「世界のユダヤ人クリスチャンが霊的な統一体となるべく霊的に集合する」という意味はある。

しかし、実際の物理的世界においても統一が行われたと考えるべきではないか。

私は、日本において南北朝は統一され、バラバラだったユダヤ人クリスチャンがまとまったと推測する。

(4)

日本は、イエスをメシアとして受け入れたことによって契約的呪いを解除されたイスラエルの人々の集合である。

天皇家の菊紋と六芒星(または桐紋)はその象徴である。

代々、天皇は、大嘗祭において湯帷子を着て水の中に入ってそこから出てくる。これは、バプテスマである。

水から上がった新しい天皇は、神の前で天照大神とともに食事をする。これは聖餐式である。

そして、傾斜した畳の上に寝て、イサクの献身の儀を行う。

これを通じて天皇に天照大神の霊(天皇霊)が下る。つまり、聖霊のバプテスマである。

天皇は、クリスチャンのリーダーとして契約の民である日本人のために祈り、統治する。

日本人は、日本という契約の民の土地、すなわち、地上の天国を守るためのケルビム(御使い)である。

烏帽子やちょんまげは、日本人が鳥であることを象徴している。

イルミナティによる日本への攻撃は、この契約の地を汚して破壊し、偽メシアによる世界支配を完成するためにどうしても行わなければならないことなのである。

この計画に気付いたわれわれは祈って、その偽メシア運動を挫折させなければならない。

 

 

2014年10月29日



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