聖書に自然科学的な厳密さを要求すべきではない



聖書って円周率「3.14159265…」を「3.00」と記載している書物ですよね。

「列王記上」第7章二十三節
『彼は鋳物の「海」を作った。直径10アンマの円形で、高さは5アンマ、周囲は縄で測ると30アンマであった…』

聖書を科学の教科書的に読んではなりません。

なぜならば、目的が違うからです。

聖書の目的は、「契約の民が契約的に正しく生きるための指針」です。

この目的に沿ったレベルの科学的正確さはありますが、現代の自然科学が要求するレベルの正確さは目的から逸脱します。

たとえば、書物にはそれぞれ目的があります。

詩集を出した人が、自分の詩の中で、

水が人を飲み込んだ

と表現したとします。

これを詩集の目的を度外視した人が「科学的に不正確だ」と批判し、「人が水を飲むことはあっても、水が人を飲むことはない」と言えば、的外れな批判になります。

同じように、聖書に対して科学的な厳密さを過剰に要求することは、意味がありません。

しかし、では聖書を「科学的に不正確だから、イエスが復活したのも寓話である」と解釈してよいかというとダメです。

イエスの復活の事実を否定することは、契約人が契約的な生き方を行う上で支障をきたします。

なぜならば、この契約の土台は、イエスの復活にあるからです。

イエスの復活を否定すれば、「人間は肉体的に贖われる必要はない」ということになり、聖書の主張を根底から破壊します。

聖書では、人は、霊と肉体をもって創造されました。

その目的は、「被造物でありながら、神の代理者として被造物を支配する」ことにあったからです。

肉体を持たない天使ではこの役割は務まりません。

人間は、土のちりから作られました。

その意味において、人間と地球及び宇宙は兄弟です。

だから、人間が堕落すると、地球及び宇宙全体も堕落しました。

契約的代表者としてのアダムは、被造物全体を背負って神の前に契約を遂行し、自分と宇宙全体を栄光化する責任がありました。

それに失敗したので、宇宙全体も神の御前で堕落し、穢れました。

イエスは、この人間の失敗を代わりに成功するために受肉し、「新しい被造物」となり「被造世界全体を背負って、神の法をすべて守り、栄光化の権利を受けました」。

神の試験に合格したので、イエスに契約的に連なる被造物全体を栄光化しました。

個々の人間は、イエスと契約を結び、その御体の一部になることによって、イエスと同じように契約を守ったとみなされるので、栄光化の権利を受けます。

今世界と契約人(クリスチャン)は、法的に栄光化されています。

しかし、これは法的にであって、実際的ではありません。

実際的に栄光化するには、契約にしたがって契約の法を守りつつ、被造物を支配する必要があります。

神の御名によって支配するものはすべて聖められ、神の国の一部になります。

こうやってクリスチャンの業を通じて徐々に世界を栄光化しなければなりません。

イエスの復活は、それに契約的に連なる人々とその人々が契約的に支配するすべての領域も復活することにしるしです。

イエスが永遠の命を受けられたのと同様に、われわれも永遠の命を受けました。

復活が寓話であれば、われわれの復活も否定されます。

この聖書が啓示する契約の体系がすべて崩壊します。

聖書は、契約の書であるという意味の範囲内で科学的であり、そのようなものとして読むべきです。

 

 

2015年2月9日



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