クリスチャンはどのような人か


パウロは、「愛は・・・」という形でクリスチャンの理想像を述べている。


愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13・4-13)

1.

「愛は寛容であり」

「寛容」の原語makrothymeiは、「理性を働かせることによって怒りを遅らせ、復讐をしない」という意味である。

http://biblehub.com/greek/3114.htm

クリスチャンは、理性的であり、自分の感情に流されない。

怒りっぽかったり、復讐心を持ち続けたりしない。

2.

「愛は親切です」

「親切」chresteuetaiの語源chrestosは、物の場合「役に立つ」「便利な」「丈夫で長持ちする」「快適な」であり、人の場合「感じの良い」「親切な」である。

クリスチャンは「感じのよい人」「心地よい」人である。

そのため、クリスチャンは、常に相手に自分が役に立つか、快適さを与えているかどうか配慮する。

3.

「人をねたみません」

「ねたむ」の原語zeloiは、沸騰しているお湯がボコボコ音を立てている様子からきている言葉である。

J・Thayerはそれを「妬みのあまり体が燃えている」状態を表すという。強い願望を持ち、本気になっており、集中しているありさま。

http://biblehub.com/greek/2206.htm

クリスチャンは、人をうらやましく思わない。自分よりも幸せな人、優秀な人、人気のある人のことが気になってしょうがない、ということもない。

ねたみは、サタンの心である。サタンは神をねたんだ。彼は、神へのねたみから行動している。人が神を敬っていることが嫌で嫌でたまらない。

彼らの崇拝を自分に向けたいと考えている。だから、クリスチャンが偽教理に騙されて、サタン崇拝に向かっているのを見るのが楽しくてしょうがない。

ねたんでいるクリスチャンはサタンに憑依されていないかチェックすべきである。

4.

「愛は自慢せず」

「自慢」の原語perpereuetaiの語源perperosは「過大な関心を求める『目立ちたがり屋』」の意味。

http://biblehub.com/greek/4068.htm

クリスチャンは、目立とうとしない。自慢話をしない。

5.

「高慢になりません」

physioutaiは「膨れ上がった」「誇り高い」という意味である。

その語源phusaは「牛の鳴き声」である。鳴いている大きな牛が「プライドで膨れ上がっている人間」を連想させるからか。

6.

「礼儀に反することをせず」

原語aschemoneoは「不適切な、見苦しい、無作法な、下品な行動をする」という意味である。

http://biblehub.com/greek/807.htm

クリスチャンは、下品なことをしない。人が見て見苦しい行動をしない。

クリスチャンになると上品になる。

相手に無礼を行ったとわかれば、すぐに謝罪する。

7.

「自分の利益を求めず」

原語ta heautesは「自分自身のもの」。

クリスチャンは自分に属するものや事柄に関して、目を血走らせることがない。

利得を得ることそのものは罪ではないが、それを貪ることが罪。

カルヴァンは次のように言う。

この定義は「クリスチャンは自分の利益を求めてもよいのだろうか」という疑問を解決する。

パウロはここで、自分に関するいかなる種類の心配や配慮をも非難していない。

彼が非難しているのは、そのような心配や配慮を過剰に行うことである。

過剰な心配は、自分自身に対する異常かつ盲目的な愛着心から発する。

もしわれわれが他人を無視するほどに自分のことを心配するならば、もしくは、われわれが自分の利益にこだわるあまり、神がわれわれに対して求めておられる他人への配慮を忘れるならば、その心配や配慮は過剰である。

http://biblehub.com/commentaries/calvin/1_corinthians/13.htm

利己的に利益を追求する人が多い。「自分だけが儲かればいい」と。

そのような利己心は結局、他人との関係を損ない、自分を孤立させる。

クリスチャンのビジネスマンは、顧客と自分の間にウィン・ウィンの関係を結ぼうとする。

8.

「怒らず」

paroxynetaiは「挑発や刺激を受ける」という意味なので、「挑発に乗らない」ということ。

クリスチャンは誰かに挑発されても、それに応じてカッとなることがない。

9.

「人のした悪を思わず」

原語では「悪を無視する」もしくは「悪について考えない」。

これは「他人の悪について考えない」という意味だけではなく「自ら悪事を行おうと思わない」という意味もある。

クリスチャンは、人のした悪について、いつまでも根に持ったり、それについていつまでも考えたりしない。

不寛容は損である。

なぜならば、人に対して厳しくすると、神が自分に対して厳しくなるからである。

さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7・1-2)

人生を快適に過ごしたいなら、人のした悪を思い出さないことである。

10.

「不正を喜ばずに真理を喜びます」

クリスチャンは、不正を嫌う。

そもそも軽蔑する。なぜならば、神が造られた世界において、不正は結局のところ不利益になるから。

神が祝福されなければ、どんなに利益を得ても、幸せにはなれない。

しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」(エレミヤ17・11)

クリスチャンは真理を喜ぶ。

なぜならば、真理は自由への鍵だから。

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)

虚偽を教えられ、洗脳されている人々は自由ではない。

われわれに人や組織、ものに対する恐怖があるのは、虚偽を信じているからである。

真理を知れば知るほど、恐怖から解放される。

逆に、洗脳しようとする人は、われわれに恐怖を与えようとする。

いわゆる霊能者と呼ばれる人が、TVの収録が終わると芸能人に近づいて「あなたに何か憑いているようね。放置すると大変よ」と言って、除霊に誘うと聞いたことがある。

彼らの言葉を信用すると、ますます脅かされる。「ここにこんな置物を置くと、悪い霊を呼び込みますよ」とか。

彼らの最終的な目的は、金づるにすることである。

どんどん金をむしり取られる。

クリスチャンは「イエス・キリストこそ世界の王である」との真理を知っているので、悪霊とか悪運とか恐れない。

神以外のいかなるものにも恐れを抱かない。

迷信やオカルトを信じている人は、がんじがらめにされる。

祟りや呪いを恐れて、何一つ自由にできない。

真理を愛すると自由になれる。

 

 

2016年9月24日



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