経験してから言え?


子育てについて何か言うなら、自分もやってから言えという日本語の匿名メールがロサンジェルスから届きました。

その人に返信したのですが、Permanent Errorになってしまいましたのでここで書きます。

この人は、致命的な誤解をしています。

聖書が教えることを伝えるということは、世俗の教育評論家の活動とはまったく違う。

聖書を伝える人は、それが神の言葉だから伝えているのであって、自分が体験し、立派にやっているから伝えるのではない。

それなら、イエスやパウロが子育てについて触れたところは全部権威を失うことになりませんか。

イエスやパウロには子供がいなかったので。

エレミヤも、エリヤも、バプテスマのヨハネも、家庭教育について何も言えなかったわけでしょうか。

言っておきますが、私は、自分が体験したことを言っているのではなく、聖書は何を言っているのかをここで書いている。

誤解する人が多いので言います。

私は、自分の主張を書いて、それを発表することに何も意味を感じません。

自己実現とか興味ないので。

自分の内側の霊に押しだされて、語弊がありますが、ある意味「しかたなく」やっている。

エレミヤが言ったように。


私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20・9)

語らざるをえないのです。

普通の子育て専門家や教育専門家ならば、自分の体験がものを言うでしょうが、聖書に関しては、純粋に何が書かれているかが問題で、昔から預言者など御言葉を伝える活動をしている人は、自分の意見を述べる隙を与えられなかった。

自分の意見を述べると、聖霊からストップがかかります。

聖霊のストップがかかりながら、それを発表するというのは恐ろしいことです。

逆に、講壇から語られる正統的な教理、聖書的な言葉に対して、いちゃもんをつけるならば、それは、その話者に対して文句を言っているのではなく、神に対して言っている。

これも恐ろしいことです。

脅迫めいたことを言うつもりはないが、ここで述べている言葉については、私の見解の間違いについてなら結果は出ないが、聖書が教えている事柄について反論したり、無視することは命取りになります。

子育てについて聖書の教えを伝えているならば、それを聞くしかない。

もちろん、聖書的でない場合には反論できますが、聖書が明確に教えている場合、それを伝えている人に子育ての経験があるかないかなんて関係ない。

こういう聖書の主張とそれを伝える人に対する文句を言う人に対して神は厳しいです。

この匿名氏の場合には、子育てに関して神は厳しく裁かれる。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。(ルカ6・37)

さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7・1)

 

 

2015年11月16日



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