経験してから言え?
子育てについて何か言うなら、自分もやってから言えという日本語の匿名メールがロサンジェルスから届きました。
その人に返信したのですが、Permanent Errorになってしまいましたのでここで書きます。
この人は、致命的な誤解をしています。
聖書が教えることを伝えるということは、世俗の教育評論家の活動とはまったく違う。
聖書を伝える人は、それが神の言葉だから伝えているのであって、自分が体験し、立派にやっているから伝えるのではない。
それなら、イエスやパウロが子育てについて触れたところは全部権威を失うことになりませんか。
イエスやパウロには子供がいなかったので。
エレミヤも、エリヤも、バプテスマのヨハネも、家庭教育について何も言えなかったわけでしょうか。
言っておきますが、私は、自分が体験したことを言っているのではなく、聖書は何を言っているのかをここで書いている。
誤解する人が多いので言います。
私は、自分の主張を書いて、それを発表することに何も意味を感じません。
自己実現とか興味ないので。
自分の内側の霊に押しだされて、語弊がありますが、ある意味「しかたなく」やっている。
エレミヤが言ったように。
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20・9)
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。(ルカ6・37)
さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7・1)
2015年11月16日
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