執拗な祈り
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11・1-10)
「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」
普通の場合なら、たとえば、昼間ならば、友人だからということでパンを貸してくれるだろう。
しかし、夜遅く、戸締りもしてしまった場合、友人だからということでパンは貸さない。
貸してもらうならば、「あくまで頼み続ける」必要がある。
神も、普通の祝福ならば、普通の祈りで与えてくださる。
しかし、格別の祝福を受けたい場合は、普通の祈りではだめだ。
「あくまで頼み続ける」必要がある。
日常の生活を送る場合、神は「神の民だということで」祝福を与えられるだろう。
しかし、日常と違ったレベルの生活を期待するならば、格別の祈りが必要である。
格別の祈りとは、「あくまで頼み続ける」祈りである。
「もう戸締りをし、子供も寝てしまった」状態の神の御手を動かすには、執拗さがなければならない。
力を込めない祈り、お勤め的な祈りでは、神の格別の祝福を賜ることはできない。
神が「うるさくてしかたがない」と思うほどにしつこく訴えないとだめである。
たとえば、お金について、普通の祈りをしていたら、天からの雨は普通にしか降らない。
祈りを忘れている人の場合は、日照りになることもある。
私の体験では、普通の祈りをしていたら、だんだん先細りになる。
これは、おそらく貧乏霊というものがいて、妨害するからだと思う。
エデン山の上には水がたくさんある。
満々と水をたたえる湖がある。
その水が自分のところに降りてこないのは、祈りによって「川筋」を作らないからだ。
ほかのところにバラバラな川になって分散している。
悪徳政治家や変な新興宗教の教祖のところにも流れている。
祈りによって川筋を作り、自分のところに集中して流れるようにしないといつまでたっても、チョロチョロだ。
神は、クリスチャンを祝福することを望んでおられる。
だから、祈れば、そうなる。
普通の祈りだと祝福の流れはできない。
格別の祈りをすることにより、祝福がこちらに流れやすくなり、惰性でも流れてくるようになる。
しかし、長い間祈りをさぼっていると、またチョロチョロになる。
悪霊が騒ぎだし、いろんな妨害をしてくる。
われわれに必要なのは、祝福の水の「川筋」ができるほどの執拗な祈りである。
2016年10月8日
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