キリスト教はユダヤ教によって換骨奪胎された7
教会成長学がはやるようになって、クリスチャンの考え方がまったく変わってしまった。
教会を一つのビジネスのようにとらえるようになり、顧客中心主義になった。
「教会は人々の要求にこたえるものを提供しなければならない」という。
この大前提は間違いである。
「教会は神の要求にこたえるものを提供しなければならない」が正解である。
教会成長学の人々は「えっ?そんなことをやっていたらいつまでたってもキリスト教はメジャーにならず、千人教会も実現できないでしょう」というだろう。
最近来た批判メールで、「60歳近くになり、支援者も少なく、結婚もせず、子供もいないあなたには聖霊のタッチによる癒しが必要です」というくだりがあった。
余計なお世話である。
発信地は「印西」とあったので、キリスト教の教職者だろう。
求めているものがまったく違う。
神の言葉を伝える人が、支援者や結婚、家庭生活を求めてどうするのか。
多くの支援者がいて、経済的に恵まれ、幸せな家庭生活を求めるなら、事業をしなさい。
ビジネスをして、会社をたちあげ、金儲けしなさい。
金儲けは悪いことではない。
教職者が第一に求めるのは、「神の御言葉を正しく伝えること」である。
そのためなら、人生をぶん投げなければならない。
金銭、地位、人脈、教勢、会堂建築、親戚づきあい、いろんなものを捨てなければならない。
「教えを曲げるくらいなら、教会の礼拝に一人もいなくなっても構わない」という覚悟でなければならない。
実際、福音派の人々と一緒にやってきて、教えの違いから、何度も分かれてきた。
引っ越しの手伝いをして、近所で礼拝場所を確保してすぐに協力者が去っていった。
「私は再建主義シンパだったが、シンパのレベルでは一緒にできないことがわかりました」と言って。
以前福音派時代の友人はほとんどすべて失った。
今、こちら側に来ている人々は、100パーセント新たに出会った人々である。
福音派のクリスチャンの常識の中に、イエズス会の洗脳がきつくきつく入っているので、それを排除することは不可能に近い。
改革派神学と呼ばれるものの中にもディスペンセーショナリズムは深く入っているので、同じ改革主義者だからということで一緒にやれるとは限らない。
ある改革派教会にしばらく通っていた時期があったが、明らかに敬遠されているとわかったのでやめた。
今、聖書信仰を貫こうとしたら友人をすべて失うと考えて間違いはないだろう。
それくらいの覚悟がなければ、神の言葉を守ることはできない。
私は死ぬ前に支援者が一人もいなくても、自分の人生は成功したと考えている。
なぜならば、私は、神の言葉をまっすぐに語ることが成功であって、いくら支援者がいるか、いかに幸福な家族を作ったかなどどうでもいいからだ。
どうしてそう考えるのか。
「救いはもっぱら神の選びによる」と考えているからだ。
アルミニウス主義者は、「救いは人間の努力が半分必要だ」と考える。
だから、アルミニウス主義の伝道集会では「招きのときに、気分が高揚するような霊的な音楽を流したり、サクラで誰かが講壇の前に進み出て、信仰の決心がしやすい雰囲気を作る」。
カルヴァン主義者は、「周囲の環境に無関係に、神は選んだ人を救われる」と考えるので、そのような小細工を不要と見る。牧会をやっていて、正しい教えを唱えているのに去っていく人がいれば、その人について牧師は責任を負わない。
しかし、アルミニウス主義では、人間の努力半分なのだから、人が去っていった原因を人間に負わせる。
(もちろん、カルヴァン主義でも無用な躓きを与えることは御法度である。)
私は、ただまっすぐに聖書が示している教えを説き続ける。
そして、結果を主に委ねる。
だから、自分の活動の結果が、ゼロであっても、世界がひっくり返っても、どうでもいい。
いつ、どこで、誰が、どのような機会に救われるかは、神の選びである。
神が選ばれた人にとって、救いを妨害するものは何もない。
悪魔が姿を現して、「おまえはそれを信じると呪われる」とはっきり言っても救われる人は救われる。
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・39)
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9・16)
2015年11月21日
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