正しい批判をしたいなら悪意を除け


(1)
的外れなキリスト教批判がある。

キリスト教は、歴史上、無数の虐殺を行ってきたと。

聖書を信じないキリスト教はキリスト教ではなく、聖書を信じないクリスチャンはクリスチャンではない。

人の国を侵略・虐殺したりするなど聖書で厳格に禁止されていることをしている人をクリスチャンと呼んで批判することは、仏教徒にオウム真理教がやったサリン事件の責任を取らせるようなもの。

洗礼は、救いの契約に入ることで、聖餐式はその契約の更新の儀式。

この契約に入るには、キリストを救い主として信じる必要がある。

留まるには、聖書の命令に従わなければならない。

従うことに失敗した場合は悔い改めをすること。

確信犯として故意に破る人は契約から排除される。

契約から排除された人々が聖書に故意に違反してやった十字軍やスペイン・ポルトガルの南米略奪・奴隷化のような侵略行為は、契約内にいる本当のクリスチャンと一切関係ない。

まして、フリーメイソン・イルミナティがやった原爆投下、日本占領などをキリスト教の責任にすることは不可能。

(2)
日本が行ったキリシタン迫害をキリスト教迫害と同一視できない。

なぜならば、ザビエルらが持ち込んだ教えは聖書が教えるキリスト教ではないから。

イエズス会は、グノーシス秘密結社アランブラドスの会員イグナチウス・デ・ロヨラが創始。

カトリックの失地回復を目指すきわめて政治色が強い団体だった。

幕府は、宣教師たちが単なる布教のために来たのではないと判断した。

その判断は妥当であった。

彼らはスパイだったのだ。

侵略の先兵としてもぐりこんできた人々だった。

だから幕府の取った作戦は自国防衛策であり、厳密な意味でのキリスト教迫害ではない。

(3)
キリスト教批判にしろ、日本批判にしろ、対象を厳密に検討せずに、勝手にグループ分けして、いっしょくたに批判するのは、悪意の産物である。

まともな公平な判断力を持つ大人のやることではない。

キリスト教やクリスチャンを批判する人々は、よくよく自分の心と相談してほしい。

自分のうちに悪意や偏見はないかと。

それがあるならば、正しい批判はできない。

 

 

2012年12月14日



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