早まった判断をしないようにしよう
ある人がこう尋ねてきた。
「どうも、うちの教会員が女性と同棲しているようなのだ。真実を確かめるために電話して訓戒すべきだろうか」と。
私は、ノーと言った。
なぜならば、神様の時が来たらそういう罪はばれるからだ。
われわれは、明らかになった罪を取り扱うべきだ。
これは、違反を取り扱う警察と同じ。
「お前は、泥棒のように見えるから逮捕する」とは言えない。
あくまでも、泥棒という行為に及んでから逮捕できる。(もちろん、場合によっては、可能性だけで逮捕すべき場合もあるが)
人間が扱うことができるのは、外に出た行為だけであって、内面までは扱えない。
心の中を見ることができるのは、神だけだから。
神のたてられた秩序は、人間が支配する体制である。
その場合、人間が人間を裁くためには、行為が実行されなければならない。
契約的規範は、すべて「〇〇した場合、△△の罰を加えよ」というものである。
他人が罪の行為に及んだことが明らかになるまで、われわれにはそれを追求する権利も責任もないのだ。
「どうもこの人は、私のことを貶めようとしているようだ」というのは、あくまでも「印象」である。
具体的に貶める行為が明らかになるまでは、法的に訴えることはできない。
契約的に人を取り扱うのは、「外面的行為が明らかになったもの」についてだけであり、それ以前のものについては、神はわれわれに責任を要求されない。
たとえば、ある伝道者に教会が給料を支払うとする。
その伝道者が聖書を忠実に教えている限り、支払うべきだ。
しかし、聖書を曲げて教えた場合、支払うことは罪である。
偽預言の拡散を助長することになるからだ。
われわれが責任が生じるのは、「伝道者が聖書を曲げて伝えた」という具体的な行為になってからである。
その前の段階で「どうも怪しい」と思っても、そこでは責任は発生しない。
偽の教えを伝えた場合、われわれは、彼に何度かの警告を与えるべきだ。
そして、それにも聞かないようであれば、除名にする。
教職の場合は、免職にする。
他の教会がこの異端に染まらないように、公的に発表すべきだ。
そこまでしないでうやむやにするならば、われわれも「偽預言の拡散を助長し、他の教会を誤謬に巻き込んだ」罪を着ることになる。
心の中の問題は神に任せよう。
疑いが生じたら、祈って、その内面が外に具体化するように願うべきだ。
罪が表面化したら、具体的に取り扱うべきだ。
内面に留まっている段階で早まった判断をしないようにしよう。
良い麦も抜いてしまいかねないから。
2013年7月27日
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