バルトはサタンが送り込んだ偽預言者である


バルトに注意しなければならないのは、言葉は同じでもまったく違うことを述べているという点だ。

キリストという言葉は出てくるが、聖書が使用しているそれとは全く違う。

ヘーゲルが登場してから、「融合」が最も重要なこととみられるようになった。

対立は、融合して発展するためだと。

だから、「仲よくやるためには、真理にこだわるな」というような姿勢が表れた。

シェーファーはこれを「絶望の境界線」と呼んだ。

人間の思考方法が変化した。

それまでは、「これは猫である」という命題が真であれば、「これは犬である」という命題は偽ということになるが、弁証法では、両方尊重するように、ということになる。

だから、ヘーゲル流の思考方法を尊重する人は、「tomiさん、イエス・キリスト以外に救いの道はないなんて言い切るのはよくない。もっと重層的に考えるべきですよ」という。

バルトなど、ヘーゲル後の哲学の影響を受けている学者は、この「言葉の矛盾」をむしろ好んで利用する。

だから、バルトを読んでキリスト教を知ったつもりになったら大間違いだ。

あなたは、絶望の境界線を越えることになる。

あいまいもことした世界の中に放り込まれて、論理が通用しない環境の中でいつのまにか相手に取り込まれ料理されている。

最終的にもっていかれるのは「キリスト不要論」。

「すべての人はすでに救われている。クリスチャンとはそれを知っているにすぎない。」という普遍救済主義。

薬はあっても飲まなければ意味がない。

世界はキリストによって和解されているが(コロサイ1・20)、われわれがそれを自分に適用(信仰告白)しなければ無意味である。

バルトを信じることによって、キリストはどんどん忘却のかなたに追いやられることになる。

つまり、バルトはサタンが送り込んだ偽預言者である。

 

 

2011年1月20日

 

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