自分の感情を神にしてはならない



善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
(ガラテヤ6・9)

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(1ペテロ2・6)

1.

無神論者の悲劇は、神に信頼できないことである。

人生の中でどうしようもない問題が起きると、解決がつかない。

自信もない。

人生をこれまでやってこれたのは、人への信頼であった。

周りの誰かに頼ってきた。

しかし、人間に頼れなくなったらどうなるのか。

2.

クリスチャンは、そもそも人間に信頼しない。

期待もしない。

信仰生活を通じて、いやというほど人間の頼りなさを学ばせられているから頼らない。

神の訓練とは、おもに、神だけを信頼するためのものである。

人間に頼るという偶像礼拝をやめさせて、神礼拝に切り替えさせることが主な目標である。

イスラエルは、砂漠の中をマナだけで乗り切った。

人に頼るのではなく、直接神に頼ることを学ぶためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8・3)

集団を作ってそこに帰属することにより、安心を得るようなタイプの人は、クリスチャンにいないはずである。

だからクリスチャンの集団は、やくざ的な組織にはならない。

神がいない集団は、人間が神になる。

上位の人が自分にとって絶対になる。

運動系クラブの先輩後輩の関係は、人間をメシアとする偶像礼拝のそれである。

クリスチャンの集団においても上下の秩序はあるが、それは「神の三位一体の上下関係」に基礎づけられている。

「あなたがいなければ生きていけません!あなたにほれ込みました!あなたに従ってまいります!」というようなものではない。

クリスチャンにとって先輩や教師や上司は、

「あなたは神によって私の上位に立てられた人なので、神を敬うので従います」

でしかない。

相手が尊敬できるかどうか、人格的に優れているかどうか、能力が高いかどうかなど関係ない。

その組織の中で、神が設定された秩序を維持し、それを発展させるために「のみ」従う。

だから「好き嫌い」や「尊敬できるかできないか」、「顔や声が好み」などは、服従の理由にならない。

しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。(1ペテロ2・18)

「尊敬できるかできないか」ではなく、相手が横暴な人間であっても「尊敬の心を込めて」上司に服従すべきなのである。

3.

組織において、上司に服従できない場合、問題は相手にあるのではない。

自分の心の問題である。

自分が感情に流されて、「相手がどのような人間であっても、主によって立てられているがゆえに尊敬する」という努力の欠如に問題がある。

感情的になって相手を嫌っているならば、それは、おのれの堕落した肉の性質に身をゆだねる態度であり、クリスチャン的ではない。

不倫など、さしたる理由もなく、ただ「尊敬できなくなった」とか「嫌いになった」というだけで離婚するような人は、感情の動物であり、神の秩序を二の次にしているので、たとえ離婚しても祝福されない。

4.

映画や小説、テレビなどによって伝えられる「恋愛物語」によって洗脳された現代人は、自分のこころの赴くままに行動することを善と誤解している。

しかし、われわれは堕落しており、われわれの心の赴くままに行動すると解決のつかない泥沼にはまる。

聖書によって、自分の心を制御することを学べない無神論者は悲惨である。

自分がよいと思ったことによって、どんどん呪われていく。

好き嫌いで離婚し、離職し、自分の心に忠実に従うことによって、結局は、サタンの罠にはまって滅んでしまう。

解決は、聖書に従うこと。自分の感情を神にするのではなく、聖書の教えを絶対とし、それに服従すること以外ではない。

 

 

2017年5月6日



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