聖書の理想社会2


国が10%未満しか取れないとなると、格差が生じて、福祉がおろそかにならないかという問題がある。

聖書にはいくつかの社会的なセーフティネットが用意されている。

落穂拾いなどである。

つまり、収穫の際にこぼれ落ちた実は拾ってはならず、貧しい人々のために用意しなければならない。

その他、畑を全部収穫してはならず、10分の1を残さねばならない。

教会への献金は収入の10分の1であるが、その分は教会を通じて孤児院や様々な福祉を必要とする人々に割り当てられる。

しかし、聖書ではこれだけではなく、「富を持つ人々は、自分の財産を広く貧しい人に分け与えること」が命令されている。

この部分は法的制度としてパーセンテージが決まっているわけではないが、一貫して義務として書いてある。

イエスは、富める青年に、「自分の持ち物を貧しい人のために売り払って、そのうえで私についてきなさい」と言われた。

イエスの弟子になるには、貧困者への配慮が絶対的に必要なのだ。

これらの規定の基礎には、「共同体意識」がある。

聖書では、社会は、別々の個人が寄り集まっている集団ではなく、互いに密接に関係しあっている有機体の一部として認識されている。

この有機体とは、契約的一体である。

契約によって人々は結びあわされ、一つの体になる。

それは、霊的・精神的一致だけではなく、肉体的な一致である。

人間は、霊的精神的存在であるだけではなく、物理的存在でもある。

これが天使と異なる部分であり、神は天使にではなく、精神と肉体を両方持つ人間に、世界を管理させようとされた。

だから、イエスは受肉しなければならず、肉体において苦しみを受け、死を経験しなければならなかった。

だから、契約とは、単なる精神的な一致ではなく、肉体的な一致でもある。

食事は、クリスチャンの交わりにおいて重要な意味を持つのはそのためである。

同じものを食べることによって、肉体の面での一致が示される。

聖餐式では、パンと葡萄酒を食する。

そのため、他のクリスチャンが食べることができないほどの貧困に陥っている場合に、教会は彼らを支える義務がある。

聖書において、金持ちに「持ち物を貧困者に分け与える」ことが命令されているのは、契約的一体を現実化させるためである。

いくら信仰があるといっても、自分の財産を独り占めしているような金持ちは契約的一体の教理を否定しているのである。

それゆえ、聖書的理想社会が成立するには、個々人がこの「契約的一体」としての社会を意識する必要がある。

資本主義が行き過ぎると、この面がおろそかになる。

勝者が敗者を無視して富を独占するならば、それは、滅亡を運命づけられた社会である。

進化論教育によって無神論を信じ、神を見失った人々は、貧困者のことを無視するようになる。

そして、自分の身に呪いをこうむり、永遠の命を失う。

社会が永続するには、絶対的に、金持ちは貧困者に富を分与しなければならない。

結局、社会には、聖書的キリスト教が必要であり、契約的社会という理念がなければ、神の呪いを受けて、早晩死滅し、金持ちの金はどこかに消えてしまう。

こういう金持ちを「愚か者」という。

すべて聖書的キリスト教を捨てる社会は「愚か者」の社会である。

こういう教育を教会だけではなく、学校においても徹底して実行しなければならない。

われわれは、無神論教育を受けたため、契約的社会観を知らない。

社会は、イエスを中心とした有機体として認識すべし、と子供たちに教育しなければ、われわれの社会は呪いをこうむって、早晩滅亡する。

 

 

2015年2月7日



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