クリスチャンは人やものやお金に頼る必要はない


(1)
精神的に健全であるためには、聖書信仰が欠かせない。

なぜならば、聖書を最終権威にしないと、人間に頼るしかないからだ。

精神が激しく攻撃される場合がある。

その際に、心を崩さずに保つには、自分や人に頼れない。

なぜならば、人は揺れ動くからだ。

言っていることが首尾一貫している人などほとんどいない。

頼りがいのある人がいても、最後の最後どうなるかわからない。

自分に頼る人も、自分が弱いことを心の奥底でよく知っているので、精神が崩れる。

不安でたまらなくなる。

「いったい誰に頼ればいいのか!?」と。

被造物に頼ることは、被造物礼拝である。

頼ることは、礼拝である。

頼ることは、その相手を最終権威とするから。

だから、被造物に頼ることは、被造物礼拝である。

クリスチャンとは言っても、被造物に頼っている人は、お地蔵さんを拝んでいる人と変わりがない。

聖書を否定し、科学者が発表したことのほうを採用する人は、偶像礼拝者である。

こういう人々は、人間を頼るので、いざというときに弱い。

われわれ聖書的クリスチャンは、聖書を最終権威とする。

だから、ぐらつかない。

環境が厳しい場合、ぐらぐらするかもしれない。

しかし、本当のクリスチャンは、聖書に戻る。

聖書に戻って解答を得て、そして、問題そのものをそれに沿って解決し、あとは忘れる。

だから、いつも精神は健全である。

加藤諦三の著書に二人の東大生の兄弟の話があった。

兄も弟も東大法学部の秀才だったが、弟と比べて兄は成績が悪かったので、劣等感が積もり自殺した。

この兄の問題は、基準を聖書に置かなかったことにある。

聖書的評価ではなく、人間の評価、世間の評価に依存した。

だから、傍から見ると優秀で非の打ちどころがないのにもかかわらず、劣等感に苦しんだのである。

相対主義の世界に生きる人は、だいたいこのような問題を持っている。

人と比較したり、世間の目を気にしたりして、自分の本当の使命に集中できず、場合によっては絶望して自殺するのである。

社会は、「結果がすべてだ」というだろうが、そんなものに振り回されてはならない。

聖書に基づいて自分で決定した基準で自分を評価したらいい。

傍から見れば「痛い人」に見えるかもしれないが、そんなことどうでもいい。

神の目から見て正しければそれでいい。

(2)
世の中で学歴が重視されるが、学歴がものを言うのは、保守的な組織だけだ。

ベンチャーとか、自営業では、そんなもの関係ない。

「よい製品やサービスを提供できるか」だけで判断される。

いくら名のある大学や大学院を出ても学位を持っていても、仕事が雑だとか、質が低い、市場で競争できないとなれば、はじかれる。

まったく学歴がなくても、よい物を提供しようと努力すれば道は開けてくる。

「いや、官庁だと東大じゃないと大変だよ」というかもしれないが、じゃあ、官庁に就職しなければいい。

われわれは自由人として作られた。クリスチャンになるということは、サタンの軛からの解放であるから、あらゆるサタン的なもの、理不尽なもの、悪い習慣、へんな掟、…から解放されたということを意味する。

学歴がどこまでもついてくるような世界が嫌ならやめればいい。

別の世界は無限に広がっている。好きなところに行って住めばいい。

ただし、どこに行っても市場にジャッジされることは覚悟すべきだ。

だから、努力は必要。

そもそも、努力したくない人は、ご飯を食べてはならない。

神はわれわれを自由人としてくださったのだから、自由な場に行って生きたいと願うならば、それを可能にしてくださるだろう。

「いや、お金の心配が・・・」というかもしれないが、神は約束しておられる。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(生活の糧)はすべて与えられます。(マタイ6・33)

クリスチャンには、生活の糧が保証されいるので、いつでも自由になることが可能なのだ。

人の目とか世間体とか生活の心配とかからわれわれは自由である。

キリストによって贖われたということは、あらゆる被造物礼拝からの解放でもある。

われわれは、人やものやお金に頼らなくてもすむようになったのである。

 

 

2012年12月11日



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