再建の鍵は、礼拝である。
エリヤが450人のバアルの預言者と対決した際に、まず祭壇を築きなおした。
エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。(1列王記18・30)
なぜ祭壇を築きなおさねばならなかったかというと、民が破壊したからだ。
エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(1列王記19・10)
民が神に反逆した。
「契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺し」た。
祭壇を壊す行為は、契約を捨てて、神との関係を断ち切ったことを象徴する。
祭壇は礼拝において「犠牲をささげる場所」である。
罪の身代わりに動物を殺して、ささげることによって、罪を赦される場所である。
反逆によって何を得たのか。
雨が降らなくなった。
祝福が途切れた。
クリスチャンは、罪の身代わりを失うならば、祝福を失う。
なぜならば、罪の責任を自分が背負うことになるからである。
われわれは、罪を犯しても呪われない。
なぜならば、悔い改めるからである。
イエス・キリストの犠牲を信じて、それによって罪の赦しを願い求めるので、呪いが及ばない。
しかし、イエス・キリストの犠牲を信じず、罪の赦しを願い求めなければ、罪の責任は直接的に自分にかかってくる。
だから、呪われる。
クリスチャンが呪いを被っている場合にまずしなければならないのは、「祭壇を築きなおす」ことである。
つまり、イエス・キリストの十字架の犠牲を信じ、悔い改めることである。
そうすれば、再び祝福が戻ってきて、呪いは去る。
しかし、イスラエルは悔い改めを拒否し、祭壇を破壊し、それを促す預言者を殺した。
神との契約を捨てて、関係を徹底して断ち切ったために、呪われ、雨が降らなくなった。
王はバアルの預言者を集めて、祈祷させた。
しかし、雨は降らない。
つまり、契約の民が、祝福を取り戻すためにすべきなのは、偽預言者を自分のために集めて祈祷させることではない。
悔い改めなき祈りの集会は解決にならない。
教会堂にジムを作ったり、有名人を呼んで客寄せパンダにしたり、癒しの集会を開いても無駄である。
祭壇を築きなおして、イエス・キリストの犠牲によって悔い改める以外にはない。
それだけが祝福を取り戻す道である。
彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされて雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって彼らがその罪から立ち返るなら、
あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。(1列王記8・35-36)