聖書における死刑制度


死刑廃止論については、まず冤罪の可能性や、刑罰による抑止効果、その他については論じない。神学的な意味についてのみ論じる。

1.

聖書は死刑を「命じている」。つまり、議論の余地はない。
人間に残されているのは「為政者は、死刑を執行するか、それとも、神によって死刑にされる(つまり、滅亡させられる)か」の二つに一つしかない。

死刑制度は、為政者の存在意義の第一に挙げられるべきものである。すなわち、死刑を行わなければその為政者の存在する意味がなくなる。

為政者は正義を実行するために権力を与えられた神の代理人であるから、神から役に立たないと判断されれば、消滅するしかない。

「正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。」(申命記16・20)

洪水後に、神が第一声として命令されたのが、死刑制度である。

「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。」(創世記9・5)

このことは、洪水が起きた主要な原因が、殺人及び殺人に対する死刑の不履行にあったということを暗示している。

要求されているのは、われわれの主権者である神である。死刑廃止論を唱えるクリスチャンは、神の権威と聖書のそれに対して真っ向からの反抗しているため、所属教会は、その教会員を陪餐停止にしなければならない。

2.

聖書における「正義」の定義は、「同害刑罰によってのみはじめて満たされる罪の要求の実現」である。

「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」(出エジプト記21・24-25)

故意の殺人に対する刑罰は、死刑である。過失殺人の場合、賠償金で処理できるが、故意の殺人の場合は、死刑以外に選択肢はない。

「しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」(出エジプト記21・14)

それゆえ、犯罪に対して同害刑罰を与えることを拒む為政者は、正義の実現という主要な任務を履行していないとみなされ、排除される。

3.

聖書的政体において、被害者は、加害者に対して、同害刑罰を与える権利を有する。

為政者がこれを行わない場合、被害者に復讐する権利がある。

「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。
もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。
あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。
血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。
もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、
あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。」(民数記35・16-21)

これは、正義の実現として行うべきであり、怨恨による私的復讐ではない。

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19・18)

4.

殺人に対していかなる刑罰も行われないという状態を放置する国家は、神の呪いのもとに置かれる。

律法において、殺人者が特定できない場合、動物を贖いのために殺さなければならなかった。

「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。
そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。
そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。
刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。
主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。」(申命記21・1-8)

これは、今日イエス・キリストの十字架の贖いによって解決される。

すなわち、為政者は、イエス・キリストの犠牲をその犯罪に対して適用する。具体的には、犯人が特定できない殺人事件が起きた場合、イエス・キリストによる神の赦しを求める儀式を行うべきである。

このような措置を講じない国家は、その血の責任を問われ、神の呪いのもとにおかれる。

5.

対神的罪はイエス・キリストを信じることによって許されるが、対人的罪は、賠償によってのみ解決する。

人が罪を犯す場合、例外なく、神に対して罪を犯す。それゆえ、どのような罪についてであっても、イエス・キリストの犠牲を適用し、神に悔い改めを祈る必要がある。

人に対して罪を犯し、相手に損害を与えた場合、その損害を補償しなければならない。

故意の殺人を除いて、この補償は、同害を限度とし、被害者の裁量によって決定される。

たとえば、目を損なった場合、被害者は加害者の目を損なうか、それ以下の危害を加える権利を有する。また、それを賠償金で代えることができる。

「もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。」(出エジプト記21・30)

「あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。」(民数記35・31)

結論:

以上のように、故意の殺人に対して死刑を下さない為政者は統治権をはく奪されるべきである。

死刑を実行しない国家において、被害者は、正義の実現のために復讐をする権利を有し、さらに、国民は、護身のために、武器の携行する権利を有する。

 

 

2015年12月19日



ツイート

 

 ホーム

 



robcorp@millnm.net