多様性が許されるものと許されないものの区別をすべきである
子供に自分の夢を託す親がいるが、子供にとってはいい迷惑である。
子供は別の人格であるということが分からない。
子供は神に与えられた才能と能力、適性、興味がある。
それを実現することが神の御心なのであり、そのために親は責任を与えられている。
親が自分の選んだ職業につかせることを求めることは、自分が神になることであるから、偶像礼拝である。
親が子供に要求できるのは、倫理である。
十戒を守れるように訓練することは親の責任である。
これは、「一と多」の「一」である。
神の法は、世界全人類に共通の規則である。
世界中のどの親も子供に対して「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」と教育しなければならない。
そのためならば、体罰も行わねばならない。
この点において厳しくしても、子供は親を恨まない。
しかし、親の個人的な願望を押し付けるならば、子供に恨まれる。
「利用しやがって」と。
「東大に入れ」「医者になれ」みたいな願望を強制すると子供はゆがむ。
なぜならば、自分が神に与えられた適性と違うものになろうとするから。
こういう職業適性は、「一と多」の「多」の部分であって、多様性が許される部分である。
人間は、基本的な倫理を守るならば、どのような職業を選択してもいい。
この原理がわかっていないと、変なところで強制して、変なところで自由にする的外れな子育てになる。
倫理において自由にして、職業や趣味などにおいて強制をするような親は、子供をダメにしている。
知り合いに、親の理想の大学に落ちた子供に「しくじったね」と言った親がいた。
その一言を聞いて、彼は精神を病んだ。
親は、子供を一流大学に行かせられたかどうかにおいて裁かれるのではなく、どのように契約の民の戦士と育てることができたかにおいて裁かれる。
倫理において緩く育てると、後々その悪い習慣は子供の足をひっぱる。
愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(箴言22・15)
2014年2月23日
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