ユダは、当時の一般のユダヤ人と同様に、イエスに武力による解放者となることを期待していた。
「この方こそ、イスラエルを再興し、ユダヤをローマから解放し、イスラエルの栄光を回復してくださるに違いない」と期待していた。
しかし、いつまでたっても武力蜂起の兆候が現れないため、絶望して彼を売ってしまった。
クリスチャンになっても、途中で止めてしまう人の特徴。
1.イエスに対して自分の理想像を投影する。
2.忍耐が足りない。
3.世俗的欲望に流される。
1は、偶像礼拝である。
偶像を作る人は、必ず「自分の希望」を反映させる。
仏像がいかに優雅であっても、それは、人間の願望の反映である。
仏像の造形に人間の美意識が現れる。
「僕の神様はこうであってほしくない!」という強い希望がある。
つまり、偶像礼拝者とは、自己礼拝者なのだ。
自己を神としたい人。
だから、聖書が何を言っているかなど、究極的には興味がない。
最初から、神の姿を知りたいと思っていない。
途中でクリスチャンを止めてしまう人は、最初からクリスチャンではなかったのだ。
「牧師につまづいた。」「クリスチャンにつまづいた。」というのは後付けの理屈でしかない。
2.棄教者の特徴は、忍耐力がないことである。
何か悲惨なことが家族に起きる。
すると、「こんなに信仰したのに。神を信じても意味はない。」と。
信仰を誤解している。
信仰とはご利益があるから信じるものではない。
信仰とは、「自分の、被造物として本来あるべき姿に帰るために行うこと」である。
つまり、「神を第一とし、神のためにすべてをささげつくして奉仕する」人間になるためにある。
だから、自分の家族がどうなろうと、自分自身がどんなに悲惨な運命を辿ろうと関係ない。
イエスは、十字架にかかって刑死するという運命を背負って生まれてこられた。
だが、「私の食事とは御心を行うことである」といわれ、神の命令に最後まで従い通した。
偶像礼拝者は、自分の欲望が中心だから、神がそれと反することを行うと、神を捨てるのである。
聖霊によって訓練されると、人間は、徹底して自己否定し、神に服従できるようになる。
「私の幸福に奉仕しない神なんて信じるに値しない」なんていっている人は、最初からクリスチャンではなかったのである。
3.棄教者は、動機が最初から間違っていたから、クリスチャンになった後でも、世俗的な出世や快楽から離れることができない。
教会と個人の生活が二重になる。
「すべてを捨てて神のために」といいながら、キリスト教界で大物になりたがる牧師とか。
世俗の出世や金持ちになることを第一に求めること。
「出世や金持ちになること」そのものが間違いではなく、それを第一の目標にすることが間違い。
ユダは、隠れて、弟子たちから集めた金を着服していた。
ユダがイエスを捨てたのは、イエスや弟子たちが悪かったからではなく、自分の本来の姿がそうしたのである。
他人に責任を転嫁できない。