現世はテスト期間である


(1)
現代の学校教育を受けた人々は、悪霊の働きを知らない。

政治とか経済とか、背後に大きな霊的な力があることを知らない。

善の力もあれば、悪の力もある。

聖書に「ペルシャの君」という存在が啓示されている。

ペルシャを支配する悪霊である。


第一の月の二十四日に、私はヒデケルという大きな川の岸にいた。
私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。
そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。
この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。
私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。
私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。
ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。
それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。
彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。
ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、
終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」
彼が私にこのようなことを語っている間、私はうつむいていて、何も言えなかった。
ちょうどそのとき、人の姿をとった者が、私のくちびるに触れた。それで、私は口を開いて話し出し、私に向かって立っていた者に言った。「わが主よ。この幻によって、私は苦痛に襲われ、力を失いました。
わが主のしもべが、どうしてわが主と話せましょう。私には、もはや、力もうせてしまい、息も残っていないのです。」
すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」
そこで、彼は言った。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。
しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(ダニエル10・3-21)

「亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。
そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。」

これを次のイエスの描写と比較してほしい。

「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示録1・13-16)

亜麻布の衣を着、(ダニエル)
足までたれた衣を着て、(黙示録)

腰にはウファズの金の帯を締め(ダニエル)
胸に金の帯を締め(黙示録)

顔はいなずまのようで(ダニエル)
顔は強く照り輝く太陽のようで(黙示録)

その目は燃えるたいまつのようで(ダニエル)
その目は、燃える炎のようで(黙示録)

足は、みがきあげた青銅のようで(ダニエル)
足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようで(黙示録)

そのことばの声は群集の声のようで(ダニエル)
その声は大水の音のようで(黙示録)

明らかに、この「ひとりの人」はキリストである。

受肉前のキリストが預言者ダニエルの前に現れて「終わりの日」について啓示されたのである。

終わりの日とは、世界の終末ではなく、イスラエルの終末である。つまり、旧約時代の終わり。

「ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。」

ペルシャを支配する悪霊が21日間キリストに向かって対峙していた。

ミカエルはイスラエル(契約の民)を守護する第一の御使いである。

「私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき」

つまり、キリストは、ダニエルのところに行ってイスラエルの終末について啓示を行う必要があったので、代理に、イスラエルの守護天使をペルシャの王のもとに残して、王たちがイスラエルに対して悪さをしないように警護させた。

「今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。」

キリストは、再びペルシャを支配する悪霊と戦うために戻られる。

キリストが出かけられると、ギリシアの君がやって来た。

つまり、イスラエルを支配していたペルシャが倒され、ギリシアが代わりに支配したということ。

人間の目で見れば、支配者がペルシャからギリシアに移っただけ、と見えるが、霊的な目で見れば、天界において、霊的な戦いがあって、キリストがペルシャの悪霊を倒し、その次にギリシアの悪霊の支配を許されたということになる。

11章にギリシアの台頭と分裂に関する未来預言がある。

以上からわかることは、われわれが見ている世界は、動く影絵のようなものであって、その背後では影絵の正体である本物の人形が演じている。

つまり、国同士の戦いがあれば、その背後で、その国々を支配する霊が戦っているのである。 

ダニエル書10章では、キリストご自身がミカエルとともにイスラエルのために戦っておられると記されている。

これは、現在でも同じである。

キリストと大天使ミカエルは、われわれ契約の民の守護者として、悪霊と戦っておられる。

(2)
中華人民共和国を支配している悪霊がいる。

それはきわめて邪悪な霊である。

どうしてわかるかというと、やることなすことヤクザだからだ。

われわれは、このヤクザの霊が中国から追い出されるように祈らねばならない。

イエスは、堕落した契約の民イスラエルを象徴する「実を結ばないいちじくの木」に対して呪いを宣告された。

道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。(マタイ21・19)

そして、このような呪いの宣告をわれわれもせよ、と言われた。

弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21・20-23)

「信仰を持ち、疑うことがなければ」われわれも、同じように呪いを宣告することができ、しかも、その宣告通りにことが起きるのである。

いちじくの木がイスラエルであるならば、山とは何か。

イスラエルは当時ローマの属国であった。

いちじくの木が植わっている土台である山とは、ローマである。

弟子たちは、信仰によってローマ帝国を滅ぼすこともできるとイエスは言われた。

さて、われわれ、契約の民として、弟子たちと同じ立場にいる。

われわれは、信仰によって、邪悪な国家を滅ぼすことができる。

中華人民共和国の滅亡を宣告せよ。

そうすればそのとおりになる。

われわれが多数であるかどうかは関係ない。

神にとって「強い者を助けるのも、弱い者を助けるのも変わりはない」のである。

あなた一人の祈りでも、中華人民共和国を滅亡させることができる。

ただし「信仰があって、疑わずに祈れば」の条件つきだ。

信仰がなければ祈りはきかれない。

われわれは被造物であるから、創造者の言葉を疑うことは許されない。

神の言葉を疑いに基づいてチェックしたり、試験管に入れてはならない。

丸ごとそのまま信じるべきだ。

信仰による祈りは、働くと巨大な効果を生む。

(3)
われわれは「神の作品」である。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2・10)

われわれの善行すら、「あらかじめ備えてくださった」。

善行は予定されている。

われわれが善行を行うならば、それは、神の計画にあったから実現した。

われわれは、神が作られた芸術作品であるから、神の計画によらずにことが起きることはない。

人間の芸術作品は、ことごとくその作者の意思の反映である。

作者が気に入らない部分は削除される。

神の作品であるわれわれの人生において、何か悲しむべきことがあるならば、それは、神が望まれたからである。

偶然に起きることは一つもない。

すべて作者である神の計画に基づいて起きる。

目的は、「善を行わせるため」である。

われわれが善を行うために、神はすべてのことをわれわれに対して行われる。

神の計画では、われわれは世界の支配者になる。

われわれのもとに巨額のお金と権力が与えられる。

それは、世界をエデンの園のようにするためである。

世界を楽園に変えるためにわれわれは生まれてきた。

神の目的は、われわれをエデンの園の作者にすることである。

だから、その目的のために、われわれは訓練される。

世界を楽園に変えることができる者にするために訓練される。

あなたがクリスチャンになった後に経験したすべては、この訓練であった。

あなたが世界の支配者になり、世界を楽園に作り変えることができるために、神はあなたに試練を与え、訓練されたのだ。

巨額のお金が与えられても堕落せず、怠惰にならず、神の国建設にまい進できるように、様々な試練を体験させられたのである。

これからも、われわれは、帝王としての訓練を受けるだろう。

世界を支配できるだけの人格になるために。

(4)
真の支配者は、キリストであり、キリストの体である教会である。

教会とは、神の国のことであり、クリスチャンが神の御心にしたがって統治する全てである。

それは、生活のあらゆる領域に及ぶ。

神の国を制度的教会に留めるのは聖書的ではない。

われわれが神の御心にしたがって治めている領域すべてが神の国であり、エデンの園である。

われわれが、御心にしたがってわれわれに任されている領域を統治すれば、そこが神の国になる。

それを広げることによって、神の国は拡大する。

だから、いわゆる献身者などは存在しない。

全員が献身者である。

クリスチャンはすべて神の国のために献身した者である。

(5)
われわれが拡大した神の国はすべてカウントされ、永遠の世界において報いとして何倍にもなって返ってくる。

イエスのためにすべてを捨てた人は、その百倍を受ける。

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。(マルコ10・29-30)

問題は、永遠の世界でどのように暮らすか、である。

この短い生涯は、テスト期間であり、われわれの富を本当の富と考えてはならない。この世の富をテストと考え、賢く利用しなければ、本物の富を与えられない。

ですから、あなたがたが不正の富(つまり仮の富)に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。(ルカ16・11)

この世界から悪魔を追い出し、神の国を拡大した者は、今受けている物の本物を永遠の世界で受ける。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。(マタイ6・19-20)

 

 

2012年10月1日



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