クリスチャンは神の作品である


(1)
ジョン・バニヤンの『天路歴程』を読むことをお勧めする。

イエス・キリストを信じた主人公のクリスチャンが、救いの道を歩み始め、数々の霊的戦いを経験する物語である。

妻子の制止を振り切って村を出て旅を始める。

「行かないで」と叫ぶ家族の声が届かないように耳をふさいで走り去る。

ここで作者は、クリスチャンになるということは、家族を捨てることだと示している。

もちろん、これは、さしたる理由もないのに家族を捨てることを教えているのではない。

神の御心と家族の希望がぶつかった場合には、御心を選択するという意味である。

神と家族をはかりにかけた場合、神を選択せよと。

実はこの選択こそが、家族を愛することなのだ。

どのような人間関係でも、神よりもその人間関係を重視するならば、結果として、その人間を憎むことになる。

神を選択すれば、逆に、愛することになる。

信仰よりも人間的な気持ちを優先すると、周囲の人々を傷つける。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6・33)

優先順位を間違えると、得ようと思ったものすら得られない。

人と仲良くなるために罪を犯すならば、その人と仲たがいする。

主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。(箴言16・7)

人と和解したいなら、まず主に喜ばれる行動を取るべきだ。

人間関係に頭が占領されると、それに集中してしまいがちだ。

しかし、人間関係は、神との関係が正常になれば自然に改善される。

まず神の国とその義を求めよ。そうすれば、良好な人間関係が得られる。

(2)

クリスチャンの旅は、学校の連続である。

一つの学校を終われば、次の学校が待っている。

その学校は、人との出会い、就職、教会であるかもしれない。

ある人と出会うことによって学ぶ。

その学びが終われば、次にまた別の人が待っている。

神は、その人との関係で十分学んだと判断されると、その人と別れて次の人と出会うようにされる。

ある職場に入ってそこで学びが終わると、次の職場に導かれる。

それぞれは、学校であり、履修すべき課程を終えない限り卒業できない。

逃げ出して自主退学しても、次の学校で同じことを学ぶはめになる。

われわれは神の作品である。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エペソ2・10)

われわれが良い行いをするようになるまで訓練される。

神に役立つ人間になれるまで学校に入れる。

学歴が高くなれば高くなるほど、その良い行いのレベルが上がる。

より多くの人々に、より大きな影響を与えることの人間になる。

人生全体は、神の作品の製作過程である。

(3)

学校は不可逆的である。

小学校を卒業した人が、もう一度小学校に入りなおしても意味がないのと同じように、ある人との関係で学んだならば、その人とそれ以上付き合っても意味がない。

もちろん、家族など一生付き合う人もいる。

しかし、だいたいが一時的に用意された人である。

ずっと付き合おうとしてもかえって関係が悪化する。

私は学生時代、ある先輩から多くのことを学んだ。

彼を通じて、アルミニウス主義の信仰からカルヴァン派の信仰に導かれた。

しばらくぶりで再会したが、あれだけ強いカルヴァン派の信仰を持っていたのに、バルト主義者になっていた。

彼はあの時だけのために選ばれた人だったと悟った。

教えについても同じことが言える。

再建主義を学んだ人が、普通のカルヴァン主義に戻っても意味がないだろう。

もちろん、カルヴァン主義の知識を深めて、再建主義と照らしてさらに高い理解を得るということもあるだろう。

だからラッシュドゥーニーを読んでから、再びカルヴァンのキリスト教綱要を学ぶこともよい。

しかし、それほど心を惹くものではないだろう。

再建主義の牧師ジェフリー・ジーグラーが言うように、「キリスト教再建論は十分に発達した世界観・文化観であ」り、それと比較した場合、「ジャン・カルヴァンのそれは幾分見劣りする」。
http://www.millnm.net/millnm/calv.html

(4)

30代のころ、私にとってラッシュドゥーニーの著作はそのすべてがダイヤのように輝いていた。

一文一文を精読した。重要な部分には下線を引き、星印をつけた。

考え方の基本をマスターした上で、ゲイリー・ノースらの本を読んだ。

ノースなど他の再建主義者の著作は、ラッシュドゥーニーの思想の発展と肉付けである。

これらの著作を基礎として、さらに知識をつけようとしてノンクリスチャンのものも含め、様々な本を読んでいる。

今ラッシュドゥーニーの著作を読むと、かつてほど血湧き肉躍るという気持ちにはならない。

やはり時期があったのだと思う。

あの当時はラッシュドゥーニーから学べと神が導いてくださったのだろう。

(5)

ある学校を卒業したら、その学校に戻ることは気乗りがしないだけではなく、有害である場合もある。

神が「戻るな」と言われている場合、そこに戻ると人間関係はかえって悪化する。

古い学校の人々から冷たく扱われてもがっかりする必要はない。

神がそのように仕向けておられるかもしれない。

母熊が、大人になった小熊をあえて突き放して自立させるように、神が次のステップに進ませるために、古い人間関係をあえて破壊されたのかもしれない。

そういう場合、「自分がダメだからか」とか「あの人たちは冷たい」とか考えるべきではない。

神はわれわれをご自身の作品として完成させるために、次々と工程を進ませておられるのだ。

 

 

2013年12月5日



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