すべては予定されている



すべてが予定されているならば、伝道する必要はない。

クリスチャンが、大宣教命令を無視してキリスト教が衰亡しても、それは神が決定されたこと。

クリスチャンに責任はない。

すべては予定されていますが、救いは伝道によって起こります。

パウロは、「宣教の愚かさを通じて」救いは起きると聖書で明言しています。

ですから、救われるためには、伝道が必要です。

だから、伝道は予定されています。

神はある人を選んで「伝道したい」という気持ちをお与えになります。

われわれの肉の気持ちからはそのような思いは起きません。なぜならば、生まれながらに私たちは霊的死人だから。

伝道の気持ちを起こさせるのはただひたすらに聖霊による。

聖霊が一方的に人を選んで、その人に伝道の気持ちを起こさせる。

その伝道者が大勢の人に伝道します。

しかし、誰の心を開くかは、神が決定されます。

神があらかじめ予定された人の心を開かれ、その人を救いに導かれます。

予定されていない人は、応答できません。

伝道も、救いも、すべて神の側の一方的な超越的決定によるのであって、人間の側の作為は一切介在できません。

ですから、「日本においてなぜキリスト教が人気がないのか」という疑問の答えは、「日本人にとってキリスト教が魅力的ではないからだ」ではなく、「神が予定しておられないから」です。

もし日本人がクリスチャンになるときが来るならば、あらかじめ日本人が救いを受け取ることができるように伝道する人を用意され、日本人の側において強烈な渇きを起こさせられるでしょう。

さて、では、救われないのは神の決定なので、救われずに滅んだ場合の責任は神にあるのかというとそうではありません。

あくまでも、滅ぶ原因は罪です。

律法に違反して、罪を犯せば、その罪のゆえに滅びます。

ですから、こういう場面を想像してください。

AとBという二人の人が刑務所に入って死刑を待っています。

どちらも強盗殺人を犯した。

ある奇特な人が現れて、Aに向かって「私が代わりに死刑になりましょう」と言い、処刑されることになりました。

すると、Bが文句を言いました。「なぜ私のためには死んでくださらないのですか」と。

しかし、Bには文句を言う権利がありません。

自分が処刑されるのは、自分がやった強盗殺人のためだからです。

Aが救われたとしても、それは、その奇特な人の恩恵であって、義務ではありません。

人は、もっぱら自分の罪のために滅びるのです。

じゃあ、さらにこういう疑問が起きるかもしれません。

「みんなアダムの子孫は罪人として生まれてくるのだから、回避しようがない。なぜ生まれてきたのか。生まれなければ地獄に行く必要もないのに」と。

それは、神の決定だから仕方がないのです。

神が、人間をある目的のために生まれさせられた。

ヒトラーや毛沢東やスターリンのような大犯罪者ですら、神の計画によって生まれた。

彼らが悪事を重ねることを神は計画として「許容された」。

なぜ?

神の栄光を表すため。

最終的に神が悪を裁かれることを示すことを通じて、彼らは神の栄光を表す。


聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。(ローマ9・17)

パロは頑固になってモーセの奴隷解放の願いを聞かず、その軍隊は、モーセと御民を追いかけて、紅海の中で滅びました。

なぜパロは頑固になったのか。

神の栄光を表すため。

「あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるため」。

パロは、神のために「悪人として」選ばれた。

神は、超越者なので、すべてのことを、ご自分の目的のために「のみ」創造された。

非超越者であり、非主権者であるわれわれは、この神の計画について、「あなたが決定されたことはすべて正しい」と告白する以外には選択肢はありません。

これが、聖書の世界です。

「キリスト教を人気者にするにはどうしたらよいか」なんていう教会成長学の試みは神の御心から離れています。

 

 

2012年7月1日

 

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