許容すべきことと許容してはならないことのバランスを保つべきだ
あさま山荘事件が起きたとき、中学生だった。
教師たちが休み時間になると職員室のテレビの前にくぎ付けになっていたのを思い出す。
逮捕された活動家の証言で、山岳ベース事件が明らかになった。
組織が12人のメンバーを総括の名のもとで陰惨なリンチを加えて殺した事件である。
これを描いた『光の雨』という映画を見て思った。
「掟だけだと人間は互いに殺し合う」と。
サタンは、思想に無頓着になるように導く。
それは、エデンの園においてエバに対して行った誘惑を見てもわかる。
「神は本当にそのようなことを言われたのですか?その実を食べても死にません。」と。
神の言葉を無視するように導く。
今のキリスト教の現状は、聖書の無誤無謬性を無視するように導かれた結果である。
進化論やポリティカル・コレクトネスやディスペンセーショナリズムを通じて、サタンは、人々に「文字にこだわるな」と教えた。
これは、神の言葉に関する一方の誘惑である。
サタンはもう一方の誘惑を用意している。
「文字にこだわる」人々に対するそれである。
つまり、聖書の一言一句に対する忠実な心を利用して、人々を互いに争い、裁き合うように導く。
理想を抱き、善意で行動する人々を待ち構えているのは「内ゲバへの誘惑」である。
「法を持っている」ことは、その持っている人が「法に忠実である」ということを意味しない。
人間は、法を破る者である。
そして、互いにそのような弱さを認め合うことがないと、互いに対する際限のない要求が始まる。
われわれは、全員が美男美女だろうか。
理想的な顔立ちをしているだろうか。
理想的な体形をしているだろうか。
欠点だらけではないか。
心も同じである。
全員が欠点だらけの心を持っている。
そして、神はその欠点だらけのわれわれを受け入れてくださった。
神が「欠点だらけでもいい」と言っているのに、われわれが相手に理想の姿を要求する権利があるだろうか。
「あなたの目の形は嫌いだ。こう直しなさい」と言って直るだろうか。
同じように、「あなたのこの性格は嫌いだ。こう直しなさい」と言って直るものではない。
人間には、同じ場所と時間を共有しすぎると、仲間内で欠点が目につき、互いに食い合う傾向がある。
誰に対しても適度な距離を保つべきである。
山岳ベース事件でリンチ殺人をやった人々の思想は、一位一神教である。
単一の人格しかない神「マルクス主義」を信じていた。
一位一神教は、すべてを統一しないと気がすまない。
キリスト教は、三位一神教である。
3人の神が一人として行動される。
神において、一致と多様性は永遠かつ究極の原理である。
その神の被造物であるわれわれも、一致と多様性を並立させなければならない。
許容すべき部分と、許容してはならない部分と明確に区別すべきである。
許容すべき部分とは、個性である。
許容すべきではない部分とは、「神の言葉を絶対基準とすること」である。
「聖書を絶対とすることにこだわらなくてよい」という人とは別れるしかない。
しかし、性格的な問題や個性に属する事柄については、互いに妥協すべきである。
前者を支配する原理は「統一」と「義」であり、後者のそれは「多様性」と「愛」である。
この2つをバランスよく保たないと、教えの健全さが失われるか、教えにこだわりあまりに互いに批判し合って内ゲバになるか、のいずれかが起きる。
サタンはこのバランスを崩すために、人間をたえず誘惑する。
2017年5月20日
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