正統派キリスト教しか、自然科学も人文科学も価値づけることができない
(1)
「私は科学しか信じない。宗教は騙しだと思う」という見解がまかり通っているが、これも一種の洗脳の結果である。
現代の科学は、経験科学であり、経験できないことについては、知ることも、語ることもできない。
多数のデータをとって、そのデータの間を線で結んである関連性をつかむ。
しかし、経験論を極端に進めるならば、データを得た以外の部分は未知なのである。
だから、厳密に言えば、傾向を掴むことは科学にとって違法である。
「データとデータの間の空白部分も、この2つを結ぶ線上にあるはずだと類推することができる」というのは、約束でしかない。
たとえば、物を放り投げると放物線を描いて落ちてくる。
初速度や角度などを入力すれば、だいたい頂点と落下点が分かる。
100万回やってもおそらく同じ結果になるだろう。
しかし、厳密な経験科学では、それは断定はできない。
なぜならば、100兆5千億回目にどうなるかわからないからである。
重力やその他の条件が必ず同じように働くという前提そのものを疑えばきりがない。
だから、科学とは「信仰」を前提に成立する。
つまり「重力やその他の条件が必ず同じように働く」という信仰だ。
だから、科学者は、密かに「同一の法則に支配されている宇宙」という信仰を持っている宗教者である。
科学者が、唯一神の「一定法則による恒常的支配」を前提としなければ科学は成立しない。
科学者は、そろそろ降参してクリスチャンになるべきだ。
聖書の神の支配する宇宙を前提とすれば、無理なく科学を行える。
それと同時に、奇跡も信じられる。
なぜならば、法則を支配する神という前提を持てば、「法則外のことが起こることがある」と合理的に信じることができるから。
(2)
もう一つ、科学だけを信じる人が行き詰まるのは、祈りを否定せざるをえなくなるからだ。
自然法則が「絶対的に」支配していると考えると、弱肉強食の世界を無条件で受け入れるしかなくなる。
となれば、「道徳的に生きるべきだ」と子供に教育できなくなる。
われわれが希望を持てるのは、「力が強いからといって、人間はやりたい放題できない」と考えているからだ。
科学を徹底して適用すると「強ければ、不道徳なことをごり押しできる」ということを受け入れるしかなくなる。
となれば、絶望である。
「イルミナティのような強力な支配者が、これから35億人に人口を減らすだろう。われわれはその餌食になるしかない」とあきらめるしかなくなる。
われわれは、「善なる神が宇宙を支配しておられる」との信仰があるので絶望しない。
祈りによって神に働いていただき、「ごり押しする強者」を引きずり降ろしていただくことを期待できる。
(3)
「科学しか信じない」という人々は、首尾一貫性を持てない。
ある部分ではクリスチャンになりながら科学をやり、道徳を主張する。
(4)
多神教徒も首尾一貫性がない。
「この宇宙は、多数の主権者がいて、それぞれの領域を独立して管理している」という主張が正しいならば、科学的法則の一貫性を主張できないので、科学を行う行為そのものが違法になる。
だから、八百万の神を信じる科学者は自分の信仰を犠牲にしながら科学をするしかないのである。
キリスト教文化圏の中で近代科学が発達したのには、理由があるのだ。
(5)
一位一神教徒も首尾一貫性がない。
ユニテリアンやイスラム教徒などの一位一神教徒は、多様性を追求する人文科学ができない。
人文科学では、多様な現象から単純な原理を見出すという自然科学と逆のことを行う。
Aという人を調べる場合に、その人の人体の組成を調べて、元素をリストアップしても、Bという人と区別はできない。
たとえば、スターリンという人を研究する際に、彼の人体の元素組成を調べて何になるのだろうか。
スターリンもヒトラーも、ルーズベルトも、チャーチルも同じ元素で構成されている。
人文科学で重要なのは、個性である。
多様性こそが鍵である。
多様性を統一性の下位に位置づける一位一神教では、個性の研究は相対的に低い扱いになる。
三位一神教だけが人文科学に正当性を与える。
なぜならば、三位一神教において、統一性も多様性も同じ価値を与えられるから。
「神はお一人でありながら、三位であり、どちらも究極である。統一性も多様性もどちらも同じ価値を持つ」とする。
(結論)
正統派キリスト教しか、自然科学も人文科学も価値づけることができない。
2014年2月12日
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