1.
水が最終的に一番低いところに収まるように、人間は、落ち着くところに落ち着く。
いろいろと職業を試しても、自分に合った職業を選ぶ。
いろいろ仲良しがいても、親友は一人か二人である。
歌手になっている人は、結局「歌手であることが一番自然だから」にほかならない。
プレ・ミレを信じ、予定論を拒否し、神の法の絶対的権威を否定するような人は、結局「それが一番自然だから」である。
つまり、時間がたつにつれて、人はその内実が外面に出てくる。
これが「麦と毒麦の成長」なのである。
落ち着くところに落ち着いた結果が、ある人はカルヴァン主義者であり、ある人は異端なのである。
もちろん、立場を変える人も中にはいる。
しかし、長期間を経て、しかも、臨終に際してもその立場を変えない場合は、「その人はそのように予定されていた」と結論する以外にはない。
再建主義にとどまる人は、「王になることを運命づけられた人」として生まれてきた。
途中で脱落する人は、「王権を放棄することを運命づけられた人」として生まれてきた。
これは、神の決定であるからわれわれには何もできない。
他のイスラエル人はしり込みをしたのに、ヨシュアとカレブだけは、なぜ「戦おう」といったのか。
そのように選ばれていたから。
神は恵みとしてヨシュアとカレブに勝利の信仰を与えられた。
他のイスラエル人には与えられなかった。
「では、どんなに願ってもその勝利の信仰は与えられないのか」という人がいるだろう。
荒野において滅びるように予定されている人は、もともと勝利の信仰に興味がない。
神は良いものを求める人にそれを喜んでお与えになる。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7・8-11)
人々がなぜポスト・ミレに変わらないかというと、もともとポスト・ミレに興味がないのである。
つまり、この地上を神の国に変えるという働きそのものに興味がない。
だから、そのような信仰を求めもしない。
心が神に向いておらず、ひたすら自分に向いているから、ポスト・ミレなんてどうでもいいのである。
「自分のことはどうなってもいいから、神に幸せになっていただきたい」と願うのが聖霊である。
聖霊が内側にないから「自分が幸せになるにはどうしたらいいか」をひたすらに求める。
自分の幸せを常に優先するので、自分の幸せが犠牲になるような「地を従えよ」という命令が目に入らない。
ポスト・ミレを必死に求めている人がそれを得られないわけがない。
ポスト・ミレに変わらない人は、もともと「神が幸せになることなんてどうでもいい」と考えているのである。
2.
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。(ローマ8・6)
クリスチャンの心は、「御霊」と「肉」からなる。
生まれながらの人間は「肉」オンリーである。
クリスチャンになると、御霊が与えられる。
肉は何を求めるかというと、死である。
メタルは、ヒューマニズム大衆音楽の最終形である。
メタルにとって「死」は重要なテーマである。
人間の生まれながらの性質は、最終的に自殺を志向する。
ヒューマニズム(=人間オンリー教)がいかに命を目指しているように見えても、その本質は死である。
人間の肉の根源的な願いは、「神の創造秩序の破壊」である。
だから、キリスト教を失い、肉の性質だけが発現するような文化は、次第に、破壊の象徴であるドクロを好むようになる。
ヒューマニズム大衆音楽からキリスト教が除かれるにつれて、演奏者がドクロを象徴として選ぶようになった。
メタリカは「自分たちは悪魔教徒ではない。受けるからそれっぽくやっている」と述べた。
聴衆が悪魔を求めているから、演奏者は悪魔をアピールする。
アダムが悪魔に魂を売ってしまったので、その子孫である人間は、悪魔を好む。
クリスチャンの肉にもその性向が残っている。
だから、クリスチャンであっても、聖霊の影響から離れれば離れるほど、自滅に向かう。
なぜ今の教会が、それを信じれば滅び以外にはないような悪魔の騙しにホイホイと乗るかというと、聖霊の支配を受けていなからである。
クリスチャンは内部分裂している。
死を志向する肉の思いと、いのちと平安を志向する御霊による思いの、互いに真逆のものが自分の中に同時に存在する。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7・18-25)
3.
ノンクリスチャンの文化は、死を志向するので、ノンクリスチャンに世界をゆだねることは破滅を意味する。
ノンクリスチャンが堕落から救われているのはひたすら「聖霊の一般恩恵」しかない。
聖霊は、クリスチャンにだけではなく、ノンクリスチャンにも働き、彼らの「堕落を抑制」される。
しかし、それは、冷蔵庫のようなもので、腐敗を遅らせるだけで、完全停止はなされない。
冷蔵庫の中にある野菜や肉は、すでに死んでいる。
死んでいるものが、命を生み出すことはない。
命を生み出すのは、聖霊を内部に宿しているクリスチャンしかできない。
聖霊は神であり、命の根源である。
それゆえ、クリスチャンが文明をリードする以外に、世界をよい方向に変えることは不可能なのである。
国家は、クリスチャンだけに運営権がある組織にならなければならない。
選挙権と被選挙権をクリスチャンに限定しなければ、ノンクリスチャンがトップに立ち、その肉の性質が発現して、国を破滅に導いていくことになる。
4.
世界を良い方向に導くのは、「聖霊に支配された」クリスチャンだけである。
肉に支配されているクリスチャンは、ノンクリスチャンと同じように、次第に世界を破壊する。
それゆえ、選挙権と被選挙権をクリスチャンに限定しただけでは本当の解決にはならない。
その指導者となったクリスチャンが「御霊の人」である必要がある。
それゆえ、投票所に向かうクリスチャンは、候補者が本当に御霊の人であるかチェックしなければならない。
そのためにも、「肉ではだめだ、聖霊に支配されなければならない」と唱える教育が文化全体に広まり、確立されている必要がある。
このような文化を成立させない限り、名目的なクリスチャンが幅を利かせることになり、国家は再び破滅に向かう。
これでいかに教理教育が重要であるかご理解いただけたと思う。
非聖書的な教えは例外なく「肉」から出ている。
聖書的な教えは例外なく「聖霊」から出ている。
どんなに外面的に敬虔そうであっても、聖書によって厳密にチェックされていない教えは、肉であり、それゆえ、人々を破滅に導く。
教理を軽視する教会も国家も、人々を破滅にいざなっている。