一度しかない人生を人間的な心配で満たしたいだろうか


一生懸命自分の宗教を弁護し、布教するために、議論で相手を打ち負かそうとする人々がいる。

われわれは、勝利する必要はないのである。

なぜならば、われわれは必ず勝利するからである。

最初から運命は決まっている。

われわれがなすべきは、情報を伝え、選択の機会を与えることだけである。

だから、これは、戦いというよりも、和解の勧告である。

圧倒的に強い軍隊が、圧倒的に弱い軍隊に対して、降伏の機会を与えることである。

伝道とは、相手を説得するために行うものではない。

相手に情報を提供して、こちらを受け入れるならば救われ、拒むならば滅びるという運命を自ら決定させることである。

どんなに理屈をこねて相手を説得しようとしても無駄である。

選ばれていない人は、何をやっても救われない。

選ばれている人は、何をやっても救われる。

救われない人は、理由を見つけようとする。

信じたくないので、あれが悪い、これが悪いと難癖をつける。

自分は心の中で聖書が正しいことを重々理解しているのである。

救われる人は、どんなに逃げ回っても救われる。

神がその人を追い回し、最終的に救いのほうに導かれる。

救いは、人の欲求とか人間の側の問題ではなく、選びの問題である。

私のHPの情報を何十年読んでいても、救われない人は最終的にこちらから離れる。

「そんなこと言っていたら、いつまでたってもマイノリティですよ」というかもしれない。

しかし、マイノリティで何が悪いのか。

100万人の味方がいるよりも、一人の神と心が一致している人がいるほうがはるかにパワフルである。

説得しようとか、議論で勝とうとか、人気で勝負しようとか、そんなことはまったく無意味である。

一人の、ものすごい信仰の人がいれば、国はひっくり返り、世界もひっくり返る。

教団とか教派とか関係ない。

重要なのは、真理である。

聖書の真理を完璧に信仰することである。

人間的だった弟子ゲハジに対して、預言者エリシャは、天の軍勢を見せた。


神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(2列王6・15、17)

絶対的な信仰を持てば、霊の軍勢が見えるようになる。

そうしたら、教派や教団の人間関係などどうでもよくなる。

一度しかない人生を、人間的な心配で満たしたいだろうか。

それとも、神の真理に生きて、もっとも有意義な生涯にしたいだろうか。

 

 

2014年12月3日



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