生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです2
天照大神は太陽神だから、イエス・キリストであるはずはない、という人がいる。
何度も言うが、私は一度も「天照大神を拝め」といったことはない。
天照大神の物語は、その原型にイエス・キリストの十字架と復活の話がモデルとしてあると言っているだけだ。
「エホバの証人は、キリスト教から派生した」ということは、「エホバの証人イコールキリスト教」を意味しない。
同じように、
「天照大神物語は、キリスト教から派生した」ということは、「天照大神物語イコールキリスト教」を意味しない。
だから、私は太陽神を拝めとか、神道の神社で拝めとか一言も言っていない。
天照大神物語は、キリスト教を土台として組み立てられた話であるのは、明らかである。
しかし、だからといって「クリスチャンは、神道を受け入れて、教義の中に取り入れるべきだ」ということにはならない。
クリスチャンが神社で参拝したり、祭りでお神輿を担いだら、偶像礼拝になる。
神道側が、全面的に「実は、神道の起源はキリスト教でした」と告白し、占いなど今行われている様々な異教の風習を捨てて、聖書にのみ基づき、イエス・キリストのみを礼拝するようにならない限り、われわれはそれを同じ立場とみることはできない。
そういう意味において、われわれの間には、非常に大きな隔たりがある。
安易な批判は、自分の命を危険にさらすことになるので、要注意である。
2015年5月17日
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