両性具有者などの問題
>もしDSDであれば、それは神のご意志でしょうか?その場合創造の秩序に対する反逆ではなく、サポートは必要と思われますか?
両性具有者が生まれたのも神の御心です。神の御心以外に起きることはありません。ですから、創造の秩序に対する反逆ではありません。
心臓の弁に先天的な欠陥があって、血が逆流するような障害を持って生まれた人を手術などでサポートすべきなのと同様に、サポートすべきです。
> 胎児の時点で罪が入るのは、「生まれつき」ですよね。
はい。
DSDは、明らかに奇形であり、本人の責任ではありません。 何らかの社会的理解が必要だと思います。
> 生まれつきの盲人に関してはイエスは、本人が悪いのでも親が悪いのでもなく、神の栄光のためと言われました。
> それは「全ての」生まれつきの病気や障害にも言えるでしょうか?
いいえ。神の栄光のため、と言われたのは、あの盲人についてであって、普遍化できません。
なぜならば、すべての人が信仰をもち、神の奇跡によって障害が治るとは限らないからです。
> DSDであっても、異性の格好をせずにはいられず、しかも同性愛に繋がったりしたらやはり罪なんでしょうね!?
両性具有者の場合、生殖器の外形上で判断すべきではなく、遺伝子上の性別が本当の性別と判断すべきだと思います。
つまりY染色体を持っていれば、男性と考え、持っていなければ、女性と考えるべきだと思います。
なぜならば、性別を根源的に司るのは遺伝子だからです。
遺伝子上、男性と判断された場合、男性との結婚は罪になります。
>DSDだったら戸籍上で希望の性を選択して良いとの見解があるようですが、性同一性障害はそのような支援は必要ないですね。
性同一性障害は、ある程度理解できます。もともと女性ホルモンが多い男性とかいるかもしれません。女性っぽい考え方をする男性もいます。
しかし、神が性別を決定されたのですから、男性として生まれた人は、男性として生きるべきでしょう。
それが「生きづらい」としても、その決定に従うべきです。
人は大なり小なり「生きづらい」側面を持っています。
社交的な性格に生まれていない人は、人付き合いが不得手でしょう。
しかし、社交性はある程度必要であり、嫌でも人と付き合っていくしかありません。
私も先天的にこういう性格や容貌だったらなあ、と思いますが、神がそのような性格や容貌に決定されたのですから、それを受け入れるしかありません。
野球選手なら、みんなイチローとか大谷のような才能を持って生まれたかったでしょう。しかし、自分の限界を受け入れて2軍どまりで選手生活を終える人もいます。長島一茂などは、野球の能力は父親に及ばず、苦労しましたが、タレントとしての才能はあるので、そちらの道で頑張っているのではないでしょうか。
みんな個人的に限界をかかえて生きており、変えることができないものを甘受しています。
才能とか容貌とか性格などについて、私たちは、互いに欠けている部分を理解しあうべきです。
しかし、そのような理解も「聖書で設定されている限度の範囲内において」です。
性格的に自分の配偶者と相性が合わず、他人の奥さんや旦那さんのほうが相性があうからといって、不倫を認めるべきだということにはなりません。
聖書が不倫を禁止しているからです。
性同一性障害者は、人々が自分の性格や相性や容貌や才能を甘受して生きているように、自分の「生きづらさ」を運命として諦め、自分に与えられた性別の範囲内でオリジナルな生き方を探すべきです。
女性的な感性に優れた男性は、その性質を生かして、女性の気持ちや感覚を理解できる美容師になったり、心理カウンセラーになったり、いろいろと道はあると思います。
社会は、そういった「女性っぽい男性 」の存在を認めつつ、それぞれの個性を生かせるように励ますなど、支援すべきであって、迫害すべきではありません。
しかし、「性転換手術を受ける」とか「同性と結婚する」「異性の衣服を身につける」など、 聖書が設定する限界を超える行為には反対すべきです。
>もうひとつの質問は、もし私達がLGBTと知らずに仲良くなった友達がいたとして、後でそのことを知った場合、神のみこころに叶う態度、対応は罪だと教えてあげることでしょうか?
はい。
>同性愛者で救われた人の証の動画を観たことがありますが、救われる予定がある人は私達には分かりませんが、それでも呪われるべきと思ってもよいのでしょうか?
人から強いられて同性愛者になったという例外的なケース以外、同性愛者の回心は基本的に存在しないと思います。
なぜならば、ローマ書において、パウロは、同性愛を、偶像礼拝の報いとして「汚れた情欲に投げ捨てられた」結果であると言っているからです。
2018年4月11日
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