不条理な体験を通じて神の超越性を学ぶ


ヨブ記は、義人の苦しみという不条理を扱います。

超越者という概念に理解がなければつまづいてしまう書物です。

神は私たちの思いや計画をはるかに超越して永遠の昔に計画をたてられた。

それも、もっぱらご自身のために。

「神の前に正しく歩んでいるから、幸福ばかりの人生」というわけではない。

聖書において、人間とは、神と御使いと他界したクリスチャンと現世のクリスチャン、そして、悪魔と悪霊たち及びノンクリスチャンという観客の前で演じる役者である。

人生とは、舞台であり、われわれの生涯は、スポットライトを浴びて一定期間演じる劇。

われわれの役が終われば、退場する。

現世は、栄光の舞台。

人間の、ではなく、神の。

神が栄光を表すために、われわれ全員に役割が与えられている。

多くの御使いや悪霊どもがそれを見ている。

他界したクリスチャンも見ている。

限定されてはいるが、現世のクリスチャンとノンクリスチャンも見ている。

悪魔は、「ヨブは祝福されているから、神を崇めているのです。もし苦難が襲うならば、神を呪うに違いありません」と神に言った。

神は、悪魔に許可を与えて、苦難に陥らせることを許された。

ヨブは、誠実を貫いた。

それによって、神の栄光を表した。

御使いや他界したクリスチャンは神をほめたたえただろう。

悪魔や悪霊たちは敗北して恥を受けただろう。

ただし、話はそれだけではない。

神はヨブを責められる。

ヨブは神の主権がわかっていないと。

人間の幸せとか不幸せといった領域をはるかに超えた神の世界について悟りがないと。

本当に聖書がわかると、世界は、われわれの次元で動いているのではなく、霊的次元で動いていると気づく。

神も悪魔も人間を利用しようとしている。

人間は、神の手先となるか、悪魔の手先となるか、いずれかしかない。

ストーリーは、われわれの次元で決まっているのではなく、神と悪魔の次元で決まっている。

われわれから見れば、世界は不条理である。

善人が苦しみ、悪人が繁栄する。

しかし、神と悪魔の次元では、すべてに理由がある。すべてが合理的である。

善が負けて、悪が勝つのは、一時的。

全体的な計画において、善は勝ち、悪は負ける。

善人は祝福され、悪人は呪われる。

世界は、神の世界制覇に終わるようにあらかじめストーリーが出来上がっている。

人間は、神によって、おのおの役割を与えられて、そのストーリーの前進のために働く。

信仰とは、人間的レベルでどのように事態が推移していても、その背後に超越的な計画が着実に進んでいることを悟る力である。

われわれは、不条理な体験を通じて、このことを学ぶ。

 

 

2012年7月11日

 

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